お昼ごはんを同僚に誘われて外に食べに行った帰り。
いきなり後ろから伸びてきた手に捕まれて、路地に引きずり込まれる。
声を出す前に口を塞がれて、誰か確認することもできない。
「油断しすぎでしょ?」
呆れたような声が、吐息交じりに耳元に吹きつけられる。
この声には、聞き覚えがある。
現実離れした者ではあったが、確かに覚えている。
「今夜、夜、あの家に来てください」
痛いほどのあの感触が思い出される。
あれから一週間経っていないとは思えないほどに強烈で、
そして昨日だったのではないかと錯覚するぐらいには鮮明に覚えている。
忘れたくても忘れられない、
そして、あの言葉の響きが忘れたいと思わせてくれないのだ。
腕の拘束を解いて、こちらの都合を聞かずにそれだけで去って行こうとする。
「ちょ、ちょっと……!」
袖を掴めず、手が宙をかく。
「なんですか?」
振り返りながらその手を見た目は冷ややかで、心が痛い。
「ああ、言い忘れていましたね」
顔が近づいてくる。
何の熱も情も篭っていないその目が、見えなくなるほど近くに。
耳元に口を寄せられる。
「愛してるよ、いるかせんせー」
先ほどのあの目からは想像がつかないような、甘い響きを持って言葉が注ぎ込まれる。
頭の中にくっきりとあの夜が思い起こされて、痺れるような感触が広がっていく。
痛い。言葉が、痛い。
それだけのことで、たった一言に、たった一晩に、ここまで振り回されている。
膝をついてしまいそうだ。
心臓が、痛い。
脳の動きが、鈍くなる。
平衡感覚を手放したいとすら訴え始めた。
馬鹿みたいに、愛している、ばかりが頭の中でぐるぐるして、脚から力が抜ける。
ふらふらとした俺の手を、はたけ上忍がつかんだ。
「大丈夫? 腰抜けてるーよ」
お前のせいだと、叫びたいのに叫べない。
そんなこと全く知らないかのように笑っている。
冗談じゃない。
それなのに、こんな人が言ったことなのに「愛している」だけで動けなくなる。
掴まれている腕の布の上から微弱に伝わる体温を拾って、そこが熱を持つ。
血の巡りが一気に激しくなったかのような気がする。
脈拍が、脈に触れていないのに分かるほどにうるさく響く。
熱っぽく、段々と視界が狭くなっていく。
早く離れたくて、何とか声を出す。
「大丈夫です……」
顔にも熱が集まっているのだろう。
自分が今、どんな顔をしているのか想像がついてしまって、居た堪れなくなる。
「あっそ」
あっさりと手が離れていく。
熱がじわじわと引いて、頭が冷めていく。
それでも戻らない平衡感覚に足元がふらついて、壁に凭れ掛かる。
下を向いてため息を吐いた。
「やっぱ、大丈夫なの?」
頭の上の方から声が降ってきた。
もう行ったと思っていたのに、いつの間にか戻ってきていた。
「なんでも、ないです……」
「体調悪いんだったらさっき一緒にいた先生の友達呼ぶけど。
ていうか、そろそろ来るんじゃない?」
「大丈夫ですんで、気にしないでください」
「じゃあ俺は行きますね」
後ろを向いて行ったのを見た。
その背中に何かを言いかけてやめた。
一つ身震いする。
霜が降りるように、体と頭が静かに冷える。
「おい、イルカいきなりいなくなって驚いだぞ」
「あ、ああ、ごめん……」
「おい、大丈夫かよ」
「ああ、大丈夫だ」
足元は多少ふらつくが、もう歩ける。
耳元を風が撫ぜていく。
先ほどの吐息に似た、くすぐったさ。
熱までも思い起こされて鳥肌が立った。
――◆――◆――
「俺、イルカ先生のこと好きだよ?」
へらへら笑いながらこの男がそんなことを言いだしたのはいつのことだったか。
初めて言われたときの衝撃に似たようなものは思い出せるのに、
いつ言われたかなんていうのはすっぽりと頭から抜け落ちている。
それほどまでに意味もなく、回数を重ねられた言葉だ。
「こういうこと言うと、反応するところとか」
楽しそうに笑って、頬を指が滑っていく。
顎を掴まれているから顔を逸らせない。
「そうやって反応することを気が付かれないようにと思って必死に隠している所とか」
ぞわりと、背筋を何かが走って行く。
この後の言葉を聞きたくないと、理性が拒絶を始める。
「指摘されるとまた反応するところとか、可愛いなって。
そういうところ、イルカ先生は本当にからかい甲斐があって好き」
脳が、痺れる。
ただのなんてことない言葉から、本能が拾ってくる。
愛されたい、愛されたい、愛されたい。
からかっているだけなのに、それを言葉として拾ってくる。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。冗談じゃない。
「愛しているよ、イルカ先生」
こんな言葉に、捕らわれては、心が囚われては駄目なんだ。
これは、偽り。ただの嘘。
でも、先ほどの言葉よりも全然性質が悪くない。
本当の、嘘。
ただ、みじめな自分が溺れそうになるだけだ。
「愛してる。愛してる。イルカせんせー、ねぇ?」
長い指が頬を撫でる。
くっと見つめ返せば、すかさずキスが落ちてくる。
彼が言う『愛している』は分かりやすくていい。
「イルカ先生、愛してる」
へらへらと笑って目を細めながら、体重をかけて押し倒してくる。
「また、ですか」
「いいでしょ? ねえ? 俺、イルカ先生のこと愛しているよ」
この人が俺にくれる愛は直接的に性に結びついてくる。
『愛』を与えられた分だけ、俺は『欲』で応える。
分かりやすくていい。
胸に顔をうずめて、先端を舌がいじる。
既に開発されているそこは、甘い刺激をもたらす。
先ほどまでいじられていた蕾も、滑らかに指を受け入れる。
まだ温かい中を指でほぐされる。
中に入れられた指が明らかに何かを探すような動きになる。
前立腺をゆるゆるとこすられて体が快楽に震えた。
このまま意識が飛べばいいのに。
いつも彼の与えてくれる快楽は俺を絶頂まで運んでくれる。
意識を飛ばすまで揺さぶられたことも数えられないほど。
早々にそうなれてしまえばどれだけ楽か。
少なくとも理性が焼き切れてくれればいいのに。
そう考えているうちは、なかなか行為にのみ集中することが難しい。
「入れるよ」
「あ、ちょ、ゴム、つけて……」
中で精を放たれると後処理が面倒だから。
この間風呂場の鏡で中を掻き出す自分の姿を見た時は最悪だった。
「えー、やだ」
「な、ちょ、だめ、ですって」
「イルカ先生。愛してる」
ふざけた男は、そんな言葉を口にのせて唇を塞ぐ。
体を押し返そうとする手は、指を絡めてベッドに縫い付けられる。
言葉で抵抗しながら体はあっさりと飲み込んでいく。
「イルカ先生、愛している」
言われたときの顔を見られたくないのに、手は縫い付けられて動かせない。
「ほら、そうやって反応するところ、俺大好き」
唇が、額に落ちてくる。
「今、きゅってナカが締まったね。イルカ先生、好きって言葉好き?
今度から愛しているじゃなくて『好き』も言おうか?」
「……やめろ」
声が震えそうになるのを抑えたら、自分でも驚くくらい低い声が出た。
「イルカ先生、愛してる」
「やめて、下さい」
「こんなに気持ちよさそうなのに?」
こちらの言葉を聞いているのか居ないのか、身勝手に動き始める。
快楽の波にさらされて、
じわりじわりとそんな自分の思いとか考えとかの混ざった理性が溶け落ちていく。
彼からの『愛している』は偽りでしかなく、分かりやすい。
『好き』は、戯れの本気の言葉だからもっと痛い。
愛しているだけで心はぐずぐずに溶ける。
嘘であって、偽りであって、幻の言葉に心が囚われて離れない。
嘘だと言い聞かせても、のどから手が出てそれを捕らえる。
戯れの“本気”は性質が悪い。
冗談じゃない。
冗談じゃないのに、蹴りを入れて逃げることもできない。
「イルカ先生、俺のことちゃんと呼んでよ」
「ん、な、んで、ですか……!」
「呼んで。ちゃんと」
質問には答えず、上から抑えてけてくる。
「……はたけ、」
「違う、下の名前で呼んでよ」
「カカシさん、ん、あっ、あっ、ん……!」
「よくできました」
甘い囁きが降ってくる。
「愛しているよ、イルカ先生」
名前で呼べとか、どうかしている。
偽りなら偽りで、嘘なら嘘で、空ろなら空ろでいいのだ。
本気ともつかない餌をちらつかせて、
その様子をみているのが最高に性質が悪いのに、
その言葉に、心が捕らわれる。
このまま愛しているの言葉に溺れて、死ねたらいいのに。
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- あとがき
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心が捕らわれるという言葉が好きです。
多分自分の中でこの言葉に胸を打たれたのは、秀良子さんの『リンゴに蜂蜜』だったと思います。
素敵なBL漫画です。
捕らわれるは「囚われる」という字も好きです。そのまま漢字で字の意味が伝わりますよね。