文仙

六畳の夏

 エアコンが壊れてからうだるような暑さが続いている。
「あっちぃ……」
 幾分昔から使っているエアコンだけあって、いやもはやクーラーと呼んだほうがいいか、そんなものだから修理しようとしてみたら買い直したほうが安いと見積もりの段階で買い替えを勧められてしまった。
 大学四年生の今年、新しく買い直す金はない。今年さえ乗り切れればどうにでもなったのにと、少しばかり早く壊れてしまったクーラーに恨みが募る。
「本当に暑いな」
 そう言いながら仙蔵はいたって涼しげな顔をしている。よくこんな頭も茹ってしまうような暑い中、平気で本など読んでいられるものだと思うのだが、先ほどからページをめくる手は止まらない。
「早く買い替えんのか」
「金がねぇのはお前が一番よく知っているだろう」
 卒論に追われていてバイトどころではない。それなのに一人暮らしで金は出ていく。貧乏暮らしの学生には新しいエアコンなんて高級品は手が届かないものだ。
「せめてその扇風機をこっちに寄越せ」
「その答えは、否だ」
 この暑さでパソコンが壊れたらどうしてくれる。暑いことに関して諦めはついたが、これでパソコンも壊れでもしたらもうどうしようもない。既にほとんど残っていない生活費をさらに削ってしまったら、今度は自分が壊れてしまう。そうなる前に、今は自分のことは二の次して扇風機の恩恵にあずかれているのはパソコンのみという状況だった。
「文次郎」
「なんだ」
 顔を上げたら資料に汗が落ちた。慌てて拭う。夏の湿度だけですでによれよれの資料がこれ以上に水分を含んだら、持ち上げるだけでちぎれてしまいそうだ。
「アイス、食べたくないか?」
「まあ、食べたいが。うちにそんなものは無いぞ」
 冷蔵庫の中にアイスが入れらることがあるのは、仙蔵が手土産に――といっても自分の分がそのほとんどであるが、アイスを持ってきた時ぐらいだ。ゆえに、今はない。
「知っている」
 この先に会話を進めたら、きっといいようにアイスを買いに行かされてしまう。仙蔵はといえば、相変わらず涼しげな顔で口の端を上げていた。嫌な予感しかしない。どう転んでも続くところが見えている話題をこれ以上展開する必要はない。話題を強制的に変える。
「そんなに暑いなら自分の部屋で過ごせばいいだろう」
「電気代がもったいない」
「うちも別にタダじゃあないんだがな……」
 こんなクーラーも効かないおんぼろアパートにきて、暑い暑いと文句を言うなどと生産性のかけらもないことを嫌いそうなタイプなのに、こうして仙蔵はここにいる。
「じゃあ図書館にでも行けばいい」
「へえ」
 仙蔵の目がすっと細くなった。どうやら何かの琴線に触れたらしい。
「……本当に、いいのか?」
 少し首元の開いたVネックシャツ、本を置いてこちらにわずかに身を乗り出したら、そこに隙間ができる。タイミングよく一筋の汗がつっと伝って、それを感じたようにわずかにまつ毛が震えた。よく見ると額にもうっすらと汗をかいて、髪が張り付いている。ぺろりと舌を出された舌が、こちらに見せつけるようにして唇を舐める。
 その唇が、次の言葉を紡ぐ前に言っていた。
「分かったよ、買いに行けばいいんだろう? 何味だ?」
「バニラの気分だな」
 悪魔はそう言って、笑った。


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