俺と僕と彼の記憶 17〜20


17

電話がかかってきたと聞いて、アーサーかと思った。

暫くして医者が戻ってきた。
「アルフレッド君。フランシス君という人から電話がかかってきました」
よく考えるとこの医者は患者の承諾なしに携帯電話に出たなとか。
別に、それはこの状況で正解ではあったけれど。

「アーサー君は彼の方にいるそうです」
「そう、ですか。よかった」
一安心だ。

「でも、彼、思い出したそうですよ」

「う、嘘…嘘ですよね!?」
静かに医者は首を横に振った。

彼がそんな、彼は、思い出していない筈だったのに。
思い出さない筈なのに。
なんでなんでだ。
なにが、なんで。

どうして彼は思い出した?
アーサーは大丈夫…?

「彼の、アーサーの様子は…!」
「まだ不安定だと。今日は教会で過ごすそうです」
「それで、大丈夫なんですか!?」
あの場所は、一番思い出が強い場所だろうに。
どこでもいい、あそこから離したほうがいいのに。

「アルフレッド君。君は、少々過保護になりすぎてないですか?
 いや、初対面である筈の君に言うのはどうかと思うんですけどね」
でも、君とは初めて会った気がしないんですよね。
「その、見た目のせいでしょうね。アーサー君と付き合いは長かったですから」
医者は飄々とした口調で述べる。

「God will not let you be tempted beyond what you can bear.
 神は越えられる試練しか与えない。ですよ」

この医者はどこまで知っているのだろう。

「愛された記憶が人間を強くする。彼は耐えられると思いませんか?」
医者の言葉は心に入ってくる。

「…神は乗り越えられる試練しか与えない」
新約聖書の一節だ。
…あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。
 神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、
 試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
――コリント人への手紙第1 10章13節

「信じる者は救われますかね、先生?」
「あなたは牧師さんでしょう?」
医者は笑った。
「昔の話です」
そう、あんなことになる前の。
もう7年は過ぎた。

「少なくとも私たちは、信じる人たちは救ってあげたいです。そういう仕事、してるもので」
初老の人は、挑戦的な微笑みを浮かべた。




18

「鬱陶しいのよ」

自分に向けられた言葉だと思った。
だから、母が刃を取り出した時にはついに殺されるのだと思った。
ああ、殺されるのか。
死ぬの?
死ぬ、本当に?
そんなの、嫌に決まってる!

身を捩って逃げようとした。
それでも母の手は離れない。
やめて、やめて、やめて。
俺の声はのどに張り付いて出てこなかった。
久しぶりに思い出した感情。

…怖い。怖い。怖い。怖い。怖い、こわい、怖い、こわい、こわい、怖い怖い怖い怖い。

どうにもならない。
諦めなくちゃいけないの?
死ぬ間際と言うのは昔の事を思い出す。
アルフレッドに会いたい。
この年で死んでしまうのだったら、アルフレッドの目の前で死にたい。

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

いよいよと振り下ろされるナイフにぎゅっと目をつぶる。
その時が曖昧なのと明確なのとどちらがより恐怖感を抱かないかは比べられやしないけれども、
ほぼ反射。

しかし、耳に聞こえた音は肉を切り裂くものでは無かった。

服は破られてボロボロになった。
前が肌蹴て、外気に晒される。

「やあねえ、殺されると思ったの?」
くつくつと楽しそうに笑う。
それが狂気じみていた。

「そんなことするわけじゃないの、玩具に。それともペット?」
再び近づく顔。
あごのラインに沿ってすーっと指が舐めるように動かされた。
理解する。
これは二度目だ。
一度目はあの金持ちの男。
まさか二度目が母親だなんて。

ろくでもない人。
どうか前みたいに早く終わってくれればいい。

殺す訳が無いと聞いて、気が緩んだ。
まるでそちらが犬か猫のように一生懸命に体を舐め始めて。
そして、止まったのだ。

「ねえ、誰?」
誰に向かって言っているのか分からなかった。
「これは、誰?」
ついに狂ったかと思った。

でも先ほどよりも明らかにしっかりした目をしていた。
もしかしたら今までにないぐらいに。

指差していたのは母によってつけられた傷の一つだった。
「お前がやったんだろ」
「違うわ。あなたにキスマークを付けたのは誰と聞いたの」
指差していたのは、その傷の上から塗られた紅い跡のことだった。




19

アーサーは必ず一日に一度来て、帰る。
それは夜なこともあれば朝なこともあった。

帰らないと母が心配すると言っていたが、
それはあまりにも心配する俺をごまかすための言葉だろう。

彼の母親にはいまだに会ったことが無い。
しかし、彼の話や傷跡が人物像を浮かび上がらせる。
きっと彼は、その母がここに来ることを恐れているのだろう。
だから必ず、虐げられると分かっていても母の根城である路地裏に帰る。
今日はもう既に一度来ていて、帰った筈だった。

礼拝堂を占める時間、これからはこちらの方にお越しくださいと看板を掛けて、
教会の裏手の簡素な住居に戻ると、戸口のところにアーサーがいた。

「アーサー? どうかしたのかい?」
今日は二度目じゃないか。
そう声をかけると、振り返ってただ一言。
「アルフレッド」
と笑んで言った。

安心したように肩から力を抜いた。
気を張り詰めていたのか。
しかしその笑みには、どこか陰りがあるように思えた。
それに何よりも、今日は既に一度来ているのにまたきたと言うところが変だ。

「どうかしたのかい?」
「あ、いや、何でもない」

本当に?
と重ねて聞けばよかったのだ。
そうすれば、アーサーはまだ傷つかなくて済んだかもしれない。
今になってみればとの言葉が付くが。

その時は。
「アルフレッド」
唇をこちらに突き出すようにしてアーサーが目をつぶってしまったから。
自分の陰に入れるようにして、キスをすることで精一杯になってしまった。




20

誰にやられたの。誰がやったの。誰にやられたの。
誰がやったの。誰にやられたの。誰がやったの。

それだけしか知らないようにぶつぶつと母は言った。
母はゆらゆらと揺れていた。アルコールのせいかもしれない。
長い髪によってつくられていた影が消えて、母の表情がよりはっきり見えた。
不機嫌と無表情の中間ぐらい。
何を思っているのか分からない表情をしていた。

母の体からは、あの異様な力が抜けているように思えた。
これならば脱出できるかもしれないとわずかに上体を起こした時、ぴたりと呟きが止まった。

そして母は俺に言った。
「もういいわ。どうでもいい」
そう、あなたなんてどうでもいいのよ。
それはまた先ほどの呟きのトーンに戻っていた。

頭を振って、蔑むような目をしてこちらを見ている。
「いいわよ、行って頂戴。あなたの顔なんて見たくない」
肩を突き飛ばされて、背中が再び地面と会う。

ようやく俺の上から立ち上がった母は、今度は笑みを浮かべていた。
「あら、行かないの? あなたの愛しの人の所に」
恐ろしい。
その母の言葉だけでは、どこまで分かっているのか理解することはできなかった。

ただ、声が。
呟いていた時の平坦なものでは無く、
夢見る少女のようにふわふわして可愛らしい声で。
男に媚びる時の、甘えたような、そんなとろけそうな声。
上機嫌な時とも少し違う。
それは、母が何かを考えている時の癖だった。

掴まえられる前に逃げなくちゃいけない。
どこまでも、どうにかしてこの母の元から。

アルフレッド。
助けてくれるなら彼しかいない。

滅茶苦茶に走った。
そうでもしないと、母が捕まえるために追いかけてくるような気がして。
常に視線を感じて、後ろを振り返ることもできなかった。

アルフレッドのもとに。
ただそれだけを考えるようにして。
安心したかった。

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あとがき
今回分はちょっと短め。
あと4回分で過去回想編を終らせられないような気もしてきましたが、
展開が進んできたので大丈夫ですきっと。
今まで更新されていなかったのは忘れていた訳では無いです、今日からは重点的に更新していきます(言い訳)。
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