長くぼんやりとしたところにいるみたいだった。
お腹がすいた。
そう思った。
ずっと椅子に座っていたのか体が軋む。
おかしいな、何でこんなに疲れているのだろうか。
胃がむかむかする。
それでも、何かを食べたいと思った。
何処か見覚えのある造りだと思った。
扉も、絨毯も、壁のランプも、その他の調度品も上品にまとめられている。
お金持ち、しかも成金ではなくてちゃんとした由緒のある家。
そんな事が分かる。
磨かれたドアノブを回して、廊下に出る。
ああ、思い出した。
ココは祖父母の家だ。
ほら、一度だけ来たことがある。
あれは、いつだったか。
小さい時に、
小さい時?
それは、何の話?
メイドがいた。
黒いメイド服に身を包んで、当たり前のように風景に溶け込んで。
「アーサー様、どうかなさいました?」
「じい様とばあ様は?」
「アーサー様!?」
メイドは何故か驚いたような声をあげた。
「どうかしたの、リーザ?」
俺がいた隣の部屋からばあ様が出てきた。
「ばあ様、何か食べる物が欲しい」
「アーサー! やっと喋れるようになったのね!」
何でそんなこと言うのばあ様。
まるでそれじゃ俺が昨日まで喋れなかったみたい。
「リーザぼけっとしてないで、なんかすぐに食べれるものを、この子に」
「あ、はい! ただ今!」
「よかったわ。本当に」
うりうりとばあ様は俺の頭を撫でた。
01
冷たい病室。
自分のこの体が重い病に侵されているのは知っている。
部分的ではあるものの鎮痛剤が打ってあるせいで、
その部分の感覚が無く少しだけふわふわとそちらに意識が引っ張られる。
最近は回診だけだったので久々に入った診察室。
医師のその沈痛な面持ちで、喋らずとも言わんとしている事が分かる。
「アーサー・カークランド」
「はい」
カルテを捲るはらりという音にもならない静かさが響く。
なんだか難しいことを言っている。
要約すると、もうこれが医療の限界だから、生き続けることはあきらめろという話だった。
今こうして普通に歩けることが奇跡。
それは常に感じている事だ。
元気でいるように見えて中身はボロボロ。
点滴と注射がなくなればとてつもない苦痛に体が苛まれる。
明日死んでもおかしくない。
最後の医師の言葉を有り体に言ってしまえばそんなところだ。
「俺、死ぬのか……」
ここら辺で潮時。
もう死ぬだけ。
「俺、何かしたっけなあ。むしろ、何もしてない内に死ぬのか」
少しだけ虚しい。
まあ、いいか。
これも運命。
ただ死ぬということをひしひしと感じるようになって。
知りたいと思う事が出来てしまった。
幼い頃。
いや、幼い頃と言っても、“記憶が無いのはおかしいぐらいに大きい”のだ。
15歳までの記憶が無い。一切、一片たりとも。
記憶が始まる時も朧げだ。
ただ、いつも通りのように、俺は住んでいて、生活していた。
祖父母の家であることは分かった。
小さいころに来た記憶が、有った筈だ。
今はもう、その時の判断材料になった筈の“幼いころの記憶”も思い出せない。
「思い出さなくていいの」
祖母はそう言った。
「辛いことがあって、あなたは記憶に蓋をしたのよ。だから、無理に思い出すことは無いの。
傷を負っても癒すだけの力ができたら、それから思い出せばいいの。」
今なら、壊れてしまってもいいから。
いつ死ぬか分からない。
知りたいことを知って、それで死んでしまうならそれでいいかもしれない。
明日目覚める事ができるか分からない。
この瞼を開くことが自分にできるか分からない。
でも、寝なくては。
明日を迎えるために。
02
笑い声に目を開ける。
「ふふふふふっ」
と楽しそうではあるが不気味な笑い声はどこから発生しているのか分からなかった。
白い空間。
「もしかして、もう、死んだ……?」
「いや、死んでねーよ」
笑い声がやんだ。
子どもにしては愁いを帯びてドスが効いた声が代わりに響く。
あれ、子ども?
丁度自分の下から、彼は出てきた。
「僕だよ。覚えてねーの?」
「お前は、誰だ……?」
「ああそうか、記憶が無いのか」
そっかそっか、忘れてた。
「ねえ、アーサー。未来の僕」
ということは、お前は過去の俺?
「そう、その通りだよ、未来の僕。過去の僕より言いたい事があってわざわざ来たんだ。
傷つきたくないのは分かる。もう二度と苦しみたくないだろ?」
ニヒルな笑いを浮かべている。
挑戦的ともとれる、挑発してるようにも思える。
「俺は、もう思い出してもいいと思っているが? もう、死ぬんだから」
「どうやらそうみたいだな。でも、それでもまだ生きていたいんだろ、お前は。未来の僕。
だからまだ思い出してない、ちがうか?」
事これに関しては、一切の記憶が無い。
だから、何も言えない。
「でもな、お前は一つだけ忘れちゃいけないことがある。いや、引っかかっている事か」
なあ。覚えていないだろうけど。
「お前には何にも代えがたい愛しい人が居たんだ。その人と引き離されたせいで、辛さに耐えきれなくなった」
愛しい人? そんな人が居たことを知らない。
俺は知らない。
「何で、俺はその人と離れることになったんだ? 過去の俺」
「それを知ったら、すべてを思い出すことになるぜ、未来の僕」
つまり、言うつもりはないと。
「その人は、誰? 今、どこにいるか教えてくれ」
「それは知らないよ。無理な注文。だって、お前と同じ情報量しか持ってないから」
それならば、どうやってその人に会えばいい。
「でも、運命があるなら。また会えるかもしれない」
「その人の名前は?」
「ああ、そうかお前は知らないのか」
そう言って淋しげに目を伏せた。
「アルフレッド。お前の愛しい人、彼の名前はアルフレッドだ。忘れるなよ、未来の僕」
そう言って、その“傷だらけ”の過去の俺を名乗った子供は消えて行った。
03
ゆったりとした覚醒。
白い天井が見えて、またちゃんと目を覚ますことができたと知る。
しかし、まだこれは目を閉じる前に思った“明日”じゃない。
まだこれは“今日”だ。
夕闇。そして、不自然なほどの月明かり。
病室のカーテンは開け放たれていて、しっかりとした輪郭を視界に入るものに与えるだけの光が入ってくる。
「彼に、会わないと」
ベッドの下に突っ込まれたままのスリッパ。
歩いた時に負担が来ないように厚底にしておいてよかった。
これは、足音が響かないで済む。
誰も、俺が目覚めたことに気が付かない。
中庭の扉は鍵が壊れている。
この間、どうしても寝付けなかった時に見つけたことだ。
その時は宿直の看護師に見つかってしまって大目玉をくらったが、
今日は誰とも会いそうな気がしない。
運命。過去の俺も、そう言った。
そう言えばスリッパだ。
本当は靴に履き替えたかったが、この間靴を出したのは一週間も前になる。
病室まで取りに戻るのも大変だろうし、その戸棚から出すのも周りを起こしてしまうリスクがある。
仕方ない、スリッパだ。
お金も持っていないことに気が付いた。
それに寝間着だ。寝間着と言うのも正しくないかもしれない。
病院で着られる入院患者用の何の変哲もない薄い緑色の上下セットの服。
でも、この格好で行ける範囲のところで会えなかったら、
それは運命じゃなかったというだけの話だ。
ピロティを抜けて、やたらに広い駐車場を出て、病院沿いの歩道を歩く。
自分の今の格好と言いしていることと言い、まるで夢遊病者だなと思う。
目的地もなく、着の身着のまま、そのままの格好で歩いて行ってしまう。
そして、本人には問題意識が無い。
楽しい。
久々に、こんなに長く歩いた。
もうそろそろ、広大な病院の周りを、リハビリ療棟も含めて半周だ。
でも疲れた。
横断歩道を渡った先に、ベンチが見えた。
ここら辺は病院のまわりだから綺麗に街路樹が生えそろっていて。
月の中でも十分に綺麗だ。
ちゃんと確認してから横断歩道を渡る。
こんな時間に通る車などいないだろうけど。
と思ったら、足元がライトに照らされる。
目を上げたら赤い車。
運転席に座っていたのは、彼だった。
アルフレッド。彼がそこにいる。
会ったことがあるのに記憶には無い彼が。
でも、彼だと分かる。
アルフレッド、俺は、僕はここだ。
逢うために病院を抜け出して、ここまで来たんだ。
アルフレッド。
アル、僕はここに。
気がついたら、駆け出していた。
そこには、突然のことに反応できない赤い車。
そのまま真っ直ぐに進んで。
04
車の中。
目に映ったのはフロントガラス、奥にはボンネット。
足はまだブレーキを踏み込んだままだった。
急ブレーキ。
そうか、今ここで、事故。
交通事故が起きた。
「どうしよう」
なんで車の中にいる?
もしかして、俺が加害者?
俺は早く彼に会わなくてはいけないのに。
彼に会おうと思っていたのに。
衝撃で、記憶が消えた?
とにかく、彼に会わなくては。
多分先ほどの急ブレーキのせいで大きな音がした。
気が付いた人は居るだろう。
そうしたら警察が呼ばれて、彼に会うのが遅くなってしまう。
こんなところでもたもたしている訳には行かない。
残り時間は少ないかもしれない。
間に合ってくれないと困る。
彼に、会わなくてはいけないのだから。
クラクションを長く二回ならした。
これで必ず誰かは気が付く。
撥ねてしまった人に申し訳ないと感じながら、車から降りて、俺は逃げ出した。
・→05〜08
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- あとがき
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ついにはじめてしまった。
攻め受けの関係から年齢が逆転して居ます。
現在の事故に会った時の年齢で、アーサー21歳、アルフレッド28歳です。
しばしおつきあいくださいませ。