69.待望の新作


パティスリー「シュクル」のシェフはすごい人だ。
彼が作るお菓子はまるで夢のようで、不思議で素敵な味がするのだ。

春の新作の発売日である今日は、開店前から長蛇の列ができていた。
その整理の為に下っ端が駆り出されて、
ますますキッチンの中は大わらわだったが、
それは嬉しい悲鳴と言うものだろう。
テレビや新聞も何社かが取材に来ていた。
それほどまでに、彼のお菓子は素敵だ。

新作が発表されるのは、三か月ごとの一日。
しかし春の新作が発表される今日はもう、四月の八日になっている。
待ちわびた人がどれだけいたか、列を見ればわかる。

天才パティシエである彼の新作の発表が一週間も遅れてしまった、
その本当の理由を知るものは少ない。
というよりも、私の知っている限りでは当事者である彼らと私を含めての三人だけだ。
世間では何人かの心無い人たちが「才能が枯れた」などと言っているが、
そんなことはない。
事実、今日発売された新作の味も、最高の出来だった。

そんなことじゃあないのだ。
彼が新作を出すのが遅くなってしまった理由を、私は知っている。

――◆――◆――

彼には恋人がいる。
それは、この店のオーナーだ。

よく二人でいるのは見かけられているし、
オーナーが迎えに来たりとか、そんなこともよくあることだ。
ただ、この店の中でその二人の関係に気が付いている人は、
私以外にいないと思う。

やはり、オーナーは男だから、
そのような関係と疑る人が少ないのだろう。

約二週間前の事。
新作発表予定のための最終の詰めに入ったあたりのことだった。

明日の分の仕込みを終えて、下の子たちはもう帰し、
次の日の打ち合わせが終わった後にスタッフルームに私は一人残された。

「今日これから暇か?」
正直、何の用事かは言われずとも分かっていたから、
すぐに話に移ってもらって助かった。

「……シェフ、また喧嘩しましたか?」
「分かっていても黙っていてくれよ……」
もう、新作の前だっていうのに味が決まらないよ、とぼやいた。
「自業自得って、言うんですよね」
「それも、黙っていてくれよ……」

このシェフは天才だ。
しかし、恋をしている限りにおいて。
それがむしろ彼の欠点ともいえる。
彼は恋をしていないと味が生まれない。

「じゃあ、十分後に俺の車まで来てくれ」
もう最初からこちらの返事は決まっているかのようだ。
いや、今まで一度も断ったことはないし、
断ってこの後新作ができなかった方がこの店の存続にかかわる大事なので、
このあとついて行くことはもう分かっているのだが。

二人の関係を知って、もう二年ぐらいになるか。
最初から違和感を持っていた。
ある日、店の裏でキスをしている二人を見かけたのだ。
というよりも、そんな生易しいものじゃない。
黒塗りワンボックスの扉が開いていて、
スーツとそれからコック服の白に包まれた足が見えた。
座席に押し倒されていたのはオーナーで、
押し倒していたのはシェフだった。

私はついじっと見てしまって、
気が付いたオーナーに押し返されたシェフの顔は今でも忘れられない。
見事に私と目が合った次の瞬間から顔から血の気が引いて行って、
倒れるのかと思うぐらいには顔が青ざめた。

それのお詫びと称して、食事に連れだされて以来の二人との関係が続いている。
あの時もあの時で、毎日会っているシェフはすごい嫌そうな顔をして、
それを面白がったオーナーに連れ出されたのだ。
しかしそれでシェフが開き直ったのか、
オーナーと喧嘩をすると話を聞かされ、仲裁に駆り出されることとなったのだ。
当たり前だが三人ともいい大人で、
特に二人は部下である私がいると喧嘩ができないらしい。

「で、今回は何をやったんですか」
「いや、朝ご飯にフレンチトーストを食べるか食べないかってなって……」
「オーナー甘いもの苦手でしたっけ?」
「いや、俺は試作で甘いものを食べるから、できれば食べたくなくて」
「オーナーそんなことじゃあ怒らないと思うんですけど……」

「どうやら、俺が明日の朝ごはんはフレンチトーストでいいかと聞かれたのに、
 そこには適当に返事をしたらしくて、
 それで朝になって甘いものが食べたくない気分だとか言ったもんだから……。
 でも急いでいたから適当なもの食べて出るって言って来て、
 また家に帰ったら今度はそれをあまり大したことじゃあないと俺は忘れて」

「さすがにそれは、不機嫌になりますね」
「いや、今回は俺が全面的に悪いからもうどうしようもなくて……」
「今回も、ですよね?」
「厳しいこと言うね」
「事実ですよ、受け止めてください。謝ったんですか?」
「一応は……」

この人たちは、いつもこんなことで喧嘩している。
それに付き合うのは、いつもため息と共にだが、楽しいのだ。

食事場所は二人の家だった。
この時間だからもうお店は開いていない。
ここに私が来ることはこれが初めてでは無いのだから、変な話だ。
「やあ、久しぶり。元気にしてた?」
「お久しぶりです。すみません、度々ごちそうになってしまって」
「いやいや、気にしないでよ。どうせそこのお馬鹿が頼み込んだんでしょ?」
「私も楽しくて付き合っているんで」
「ありがとうね。とりあえず、すぐに食事を運んでもらおう」
ここまで、オーナーとシェフの目が合った回数はゼロ回。

オーナーは背中を向けて部屋の奥に入って行こうとする。
とりあえず話がこじれる前にと、シェフの服の裾を引っ張った。
「ごめんなさい許してください」
オーナーの後ろ姿に向かって、土下座をした。

何でこの人はいまいちこう言うところが決まらないのか……。
ごめんなさい、許してくださいって無いでしょう。子供か。

「ごめんなさい。許してください」
「今回、何で俺が怒っているか分かったの?」
「また、ほったらかしにし過ぎましたごめんなさい」
「それは、また、教えてもらったのかな?」
「はい、おっしゃる通りです」

二人とも自分の上司とは言え、
普段身近にいる立場が上の人間が土下座をしているのを見るのは、
何と言うかシュールだ。

「仕方ないな。もう、この子を連れてこられると許さざるを得ないからね」
この子というところで指差される。
もう“この子”などと呼ばれる年齢でもないのだが。
「とりあえず、ご飯食べようか?」
キッチンからはコック帽をかぶった人が顔をのぞかせている。
オーナーが持っているフレンチレストランのコックだ。
目が合ったので、「大変ですね」と口をパクパクと動かしたら、
「そちらこそ」と言ってコックは笑った。

――◆――◆――

次の日の朝、起床予定時刻の一時間前にシェフからメールが入った。
「新作できた!」
と写真付きで送られてきた。

一体あれから何時間かけて試作をしていたのか。
そんな風に仕事に没頭するから、
怒られるってことをすでに忘れている気もするが。

そして出来上がったお菓子はまたとない上等の出来だった。

彼の作るお菓子からは甘い甘い恋の味がする。
それは、彼らの素敵で甘い恋の味だ。

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07/12
喧嘩している人たちってかわいいよね。
シェフとかコックとかって言葉の使い方が合っているか怪しい。
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