68.アンティーク


何かが手に触ったと思ったらかたりと音を立ててバネ仕掛けの箱が開いた。
中から途切れ途切れに音が零れ落ちてきて、それも少しして止まる。
ゼンマイがすべて伸びきったのだろう。
この音は、懐かしい。

この箱を見ると、当時のことを思い出す。
戸棚の奥の方から引っ張り出して、箱を再び閉じ、ゼンマイを巻き上げる。
独特のがちがちがちと歯車がかみ合うような音がして、
これ以上巻き上げる事が出来なくなった。

再び箱を開ける。
今度は自分の意思を持って。
先輩がくれたオルゴールの箱を。
この音を聞くと、あの時のことを思い出す。

ここで一つ疑念が湧く。
あの時、先輩は既に俺の事を好きだったのではないか?


――◆――◆――


アルバイトと言うものをするつもりはあまりなかったが、
それでもその店には何か惹かれるものがあった。
前を通りがかるたびに薄暗い店内を気にしていたが、
中には誰もいないようでやっているのかやっていないのか分からないまま日は過ぎて行った。

ある日、いつも通りに店内を覗き込めば、
中にいた人と目が合った。
綺麗な、宝石のよう赤い色の目をした、男とも女ともわからない人。
初めて見たと思ったが、そもそも表の通りからはカウンターは見えず、
俺がああして覗いていた時には前からカウンターの中にいたのかもしれない。
店の中に人が居たのは、少なくともそれを認識できたのが初めてで、
悪いことをしたような気分になって逃げだした。

次の日、店の前を通りかかるとアルバイト急募の張り紙があった。
今まで入ってみようと思ったことが無かったその空間に、
不思議と引きずられるように扉を開けて入った。

「いらっしゃいませ」
カウンターの奥に座っていたのは、昨日店内にいた人とは別の人だった。
多少の落胆は隠せなかったが、ぼんやりと見ていたら店員と目が合い、
そこでその人の目が綺麗な翠色をしていることに気が付いた。

ハーフなのかそれとも純外国人なのか。
いずれにせよ薄暗い店内で浮いて見えるほどには肌が白く、
緑色の目がよく似合う、綺麗な人だった。
喉仏がうっすらと見えて、この人は男の人なのかと気が付いた。
とても綺麗な人。
でも、昨日見た赤い目の、艶めかしいむせ返るような色気では無かった。

「どうか、されましたか」
そう言われるまで、その店員さんをじっくりと眺めまわしていたのだと思う。
「あ、いえ、あっ、すみません。バイトを募集していると表に張り紙がしてあって……」
「ああ、バイトの子? 思ったよりも早く見つかったな」
よかったよかったとその店員は笑った。
「明日から来られる?」
いきなりそんなことを言われて戸惑う。
「あの、面接とか……、履歴書とか、そう言ったものは?」
「君、持ってないでしょ? 履歴書。張り紙出した今日の今日で来たんだもんね。
 それに、僕は君のことを知ってるよ。毎日、このお店のこと見ていたしね?」
やっぱり、気が付かれていた。
恥ずかしいと思った。
顔を赤くした俺を見て、店員は楽しそうに笑った。

次の日からと言われても大学がある。
時間の確認をして、そこで聞いて驚いたが店員だと思っていた人は、
店長であったらしい。
バイトを取る判断をできるぐらいなのだから少しと考えずとも分かっただろうに、
見た目の年齢からかどうにも目の前にいる人に店長という呼び名が似合ってないように思えて、
大きな声を出して驚いてしまった。

何と呼べばいいのかと、恐る恐る店長と呼んでみれば、
こそばゆいから別の君が呼びやすい呼び名で呼んでくれと言われた。
いきなり名前を呼ぶのも変な風に思って、
俺は彼を「先輩」と呼ぶことにした。

バイトを始めてから初めて知ったが、
このお店は西洋風骨董品を売っているお店らしい。
ようは、アンティークショップだ。
この言い方を先輩は嫌う。自らの事を骨董品屋だと言った。

そしてお客が来ない訳では無い。
平日はお客が実に少なく、
俺が見てきたとおり大学終わりの時間に訪ね来る人はほとんどいなかったが、
休日には客が割合途切れる時間が少ない。
そもそも一人の人は来ると、二、三時間過ごす。
その半分の時間は先輩と話をすることに客は時間を費やす。

俺の仕事はと言えば、店が閉まる時間に商品に布をかけ、
あとはひたすら棚に並んでいる商品の埃を布巾で拭う。

店の中で静かに時を過ごしていると、
まるで自分と世界の時間がだんだんとずれていくようで、
何とも不思議な感覚になった。

店の奥に続いている先輩の家で、時々はご飯をごちそうになったりしながら、
先輩との関係も良好で、何事もなく俺はこの店が好きになっていった。


――◆――◆――


それは、雨が降った日のことだった。

店外から差し込んで来るはずの光が厚い雲によって完全に遮断され、
店の中はいつにも増して暗く、ともすれば足元が危うかった。

丁度、先輩がいない時だった。
平日の午後と言う普段は誰も来ない時、
店の扉につけられたベルが音を立てて中に人を呼び込んだ。

外には雨が降っていると言うのに、
その人は一滴たりとも水に濡れていなかった。
傘をかなり用心深く差していなければ、どこかしらに雨の匂いが染みつくのに、
店内に入ってきた人からはそれを一切感じることはできなかった。

あの人、だ。
一目見てすぐに気が付いた。
初めてこの店内に人が居ることを知ったあの日に目が合った、
吸い込まれそうな赤色の目をした、あの人。
艶めかしさが空気を伝って肌をぴりぴりと刺激する。
恐ろしいまでの怪しさを持ち、
先輩よりもはるかに白い肌をして、
静かにこちらに向かってきた。

まるで蛇ににらまれたように、恐怖を感じながらも僅かにも動けず、ただ竦んで、
お気に入りのオルゴールを落とさないように、
手に力を入れることしかできなかった。

「もし、そこの僕」
その声からも、その人の性別を判断することはできなかった。
中世的な声ではあったが、ただもしかしたらその時の判断機能の低下が、
そんな風に俺に思わせたのかもしれない。
「注文していたものを、取りにきたのだが……」

言われて必死に思い返す。
しかし、そのようなものがあると言うことは、
先輩からは聞いていなかった。
「いま、確認してまいります」
正常に機能しだした脳が、早くここから逃げ出したいと言った。
「そうか。手間取らせて悪かったね」
その人はそう言って笑った。
そして、立ち上がって店の奥に行こうとする俺の手首を掴んだ。
「別に、急ぎの用じゃあ無いんだ。
 今、彼はいないのだろう。君が代わりに相手を務めてくれ」
手首を掴んだまま離してくれそうにない。

大人しく座っても、カウンターの上に手首を掴まれたまま手を置かれただけで、
決して離してはくれない。
それが、話せば話す程に、
まるでそこから快楽がもたらされるような変な感覚に犯されていくのだ。
ただ手首を持たれているだけ。
それもしかも特別に変なうお気をしている訳では無いのに、
性行為でもしているかのように興奮が高められていく。

きっとあの、目がいけないのだ。
目が、どうしても。
じわりじわりと内側から嬲られるように、
静かで緩やかに何かが確実におかしくなっていく。
あの人の言葉が耳に入るたびに耳を侵され、犯され、
肌の白さは瞳を犯し、少し低い体温すらも感覚を犯す。

手を離して貰おうという気が微塵も無くなったところで、先輩が現れた。
「おい、何をしているんだ」
「いや、彼に君の代わりを務めてもらおうとね。君がいるなら君がいいさ。
 ちょっと、注文の品を取りに来ただけだからね」
「それなら店の奥だ。待っていろ」
「いや、別に一緒にとりに行くよ。入ったこと、無いわけじゃあないんだからさ」
いつもよりも荒っぽい言葉遣いの先輩が、
連れ攫われるように奥の住居に消えて行って、
そこでやっと冷静になった。

それでも興奮はなかなか引かない。
あれは、何だったのか。
自身は完全に立ち上がって、ズボンに窮屈さを訴えている。
こんなところでこうなってしまっては、と思っても、
目を開ければあの人の輪郭がおぼろげに見える気がし、
目を瞑れば今度は反対に紅い目が脳裏に浮かぶ。

暫くして奥から大きな箱を抱えたあの人と、少し不機嫌そうな顔をした先輩ができた。
会計を済ませて、店から出て行ってもなお、興奮は収まらない。
「大丈夫かい?」
先輩はいつもの柔らかい雰囲気に戻って言った。
「あ、はい……」
「あいつに、なにかされたの?」
そう言った先輩の目が、怖かった。
「いえ、あの、ただ手首を握られて……。あとは、普通に骨董の話をしていただけです」
そう答えると、先輩の目が俺の下半身に移動した。
「本当に、それだけ?」
「……はい」
気恥ずかしさから股を閉じようとするも、いまいち隠れない。

「で、そんなになっているとね……」
肯定も否定もできない状態で固まる俺を見て、先輩はまったく、あいつは、と言った。
「すみません、トイレを、貸していただけませんか……?」
トイレに行こうと立ち上がりかけた俺の額を、
先輩は人差し指で押し戻した。

先輩の手が、ズボンの上から俺に触れる。
「鎮めて、あげようか?」
俺がまだ返事もしないうちに、先輩の手は勝手に進んでいく。
あっという間に血走ったそこは露わにされて、先輩が口の中に含んだ。
「ちょ、や、なにしてんですか……!」
あの人に骨抜きにされたためにあまり入らない力で、
精いっぱいに先輩を押してもびくともしない。
その代わりに自分の体はだんだんと快楽に従っていってしまう。

「あ、あ、もう、でる、でるからっ……!」
先輩は離れずに、そのまま精液を全部飲み干した。
口の端に零れ落ちたものも、指を使ってとり、赤い舌で掬って呑みこんだ。

肩で息をする俺に、先輩は言った。
「セックス、しない?」
「え、は、あえ?」
「だから、セックス。君のここもまだ納まってないようだし」
先輩が指差したのは先ほど射精をしたばかりの場所。
なぜかもう緩やかに立ち上がり始めている。
「仕方ないよ。あいつのあれは、麻薬みたいなものだから」
先輩は艶めかしく笑った。
「セックス、しようか」

それからあと、流されるままに体を重ねた。
先ほどの赤い目の記憶を塗りつぶすように、先輩は壮絶に色っぽく、
最初の方はあった躊躇いも、快楽の波に何度も浚われて、跡形もなく消えた。

それから、先輩と俺の関係は変わった。
店長とバイトの店員では無く、体の関係を持ち、より肉薄し、そして離れた。

先輩と体を重ねるたびに、初めてやった時のことを思い出す。
同時にあの赤い目の人のことも。
先輩はあの人のことが嫌いみたいだった。
だから、初めての時のことを思い出すと悟られてはいけなかった。

先輩はうまい。
だから、気になることが一つあった。
毎回快楽の波にのまれて、それで聞けなくなることが一つあった。
先輩は、あの人と寝てたんですか。


――◆――◆――


大学生活も残りわずかとなった時に、あの人が再び店に来た。

「アレは元気かな?」
店に入っての開口一番、あの人はそう言った。
また、先輩がいない時間だった。

「今度は、何を受け取りにきたんですか?」
少しつっけんどんな言い方になってしまった。
でも、それまでには既に十分に嫉妬心は育っていた。

「アレをだよ。いつまでも、君に預けているわけには行かないからね」
意味が、分からなかった。
アレが差しているものは先輩に違いないのに、
それじゃあ、いきなりいなくなると言うことなのか。
「アレって、なんですか」
「君、分かっているだろう? 君がたびたびセックスをする、あの淫乱のことさ」
赤い目をした人は、三日月のように口を歪めた。

「さて、今回は君に用は無いんだ。アレを早く出してくれるかな」
動かない俺を見て、勝手に中に入ろうと動き出したのを止める。
「あなたには、渡せません」
奥へ続く扉の前に立ちふさがる。
「ほう、なぜだい?」
「あなたはきっと、先輩を不幸にするから」
「へえ、まるで君なら彼を幸せにできるような口ぶりだね。
 でも、君も知っているだろう。
 アレは病気だ。セックスが無いと、生きてはいけないんだ」
また、意味が解らなかった。
「君、彼がセックスをしていたのが特別なことだと思ったのかい?
 自分が特別だとでも? アレは、そう、誰とだって寝られるよ。
 君にだって一度も、好きだとか、愛しているとか言ったことは無いだろう?」
それは認めざるを得ないことで、何も反論が出なかった。

「失礼、どいてくれたまえ」
扉の前からどかされることに、大した抵抗もできなかった。

じゃあ、自分たちが共有してきた時間は何だったのか。
こんな簡単に終わってしまうものだとしたら。

あの人について扉の中に入る。
しかしそこには先輩はいなかった。
「ああ、全く」
めんどくさそうにあの人はため息を吐いた。

机の上には、紙切れが一枚置いてあった。
「消えます」
そう一言だけ書いてあった。


――◆――◆――


本来、先輩と俺の話はここで終わるのかもしれない。
しかし、再び、あの人は俺の前に現れた。

「認めざるを得ないよ。彼が、君のことを好きだったとね」
あの人は言った。
もう、赤い目に恐怖を覚えることは無かった。

「そして、彼からこれを預かってきた。君宛だ」
差し出されたのは見覚えのあるオルゴールだった。

「先輩は、先輩は今、どこにいるんですか?」
「ん、んー? アレはね、死んだよ。
 生きてはいるんだけどね。もう死んだも同然だ」
「どういう、ことですか……? なんで……?」
「家に、帰った。ただそれだけさ。
 君は何かを勘違いしているかも知れないけど、私はアレの兄だ。弟は家に連れ帰ったよ。
 そして元通り、両親の教育方針の、家の汚点は外に出すなで家の中にいるよ。
 まるで、生ける屍のようにね」
赤い目が細められる。

「アレの性分は嘘つきでね。どうしようもなく嘘を吐いて生きてきたんだ。
 それもアレは女を愛せない、ただそれ一点の為にね。
 本当は男を愛したいけど、それはできないから、男漁りを始めたんだ。
 愛したら最後、取り上げられるから情を移さないようにね。
 私もそれのひとりで、君もそれの一人だと思っていたが、どうやら違ったようだ。
 まあ、あの閉鎖的環境ではとっかえひっかえはできそうにないしね。
 一人と関係を持つうちに情が移ったのだろうとは思うのだけどね」
「なぜ、そう言えるんですか」
「なんでって。それはね。
 アレにはどうやら当時好きな人が居たらしいんだよ。
 日記には、その彼のことについて大分執着して書かれていたよ。
 毎日来てくれるだの、目が合っただの書いてあるが、
 私はあそこに何度か訪れたことはあったが、とうとう会えなかったが。
 君が店で働くようになってからは、そんな記述がぱったりと途絶えているがね」
赤い目は、そう言って去って行った。


――◆――◆――


オルゴールには一つだけ不思議なことがある。
それは、中に入っていたメロディが俺が知っていたメロディとは違うものなのだ。

しかしそのオルゴールは、赤い目のあの人が来た日に、
カウンターで触って以来取り置きをしてもらったのだ。
しかも、俺の目の届く範囲で。

調べたが、メロディを差し替えるには最低二日ほどかかる。
それに先輩がいなくなった時、店のいつものところにオルゴールは置いてあった。
だから、結論から言ってしまえばオルゴールの中身を変える時間は、
あの人が来る前までしかないのだ。

だから、この曲がクラシックの曲から、
「愛しい人より」なんて、
最近の恋愛ヒットソングに差し替えられているなんて、
そんなことは先輩がやったとしか考えられないのだ。

バイト代がそこまで溜まったらと言っていた。
でも、いつしか、そんなことをねだるよりも、
先輩の方が大事になった。
忘れていた訳では無いが、バイトがオルゴール代が溜まったらおしまいのような気がして。
言わなかったのだ。
繋がりが無くなるのが嫌で。

そこで一つの疑惑がある。
先輩は、あの人の言っていたような人では無くて、
やっぱりあの時すでに、
体の関係を持つより先に俺の事を好きだったんじゃないかと。

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先輩の年齢が不詳。
『愛しい人より』は架空の曲です。
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