38.艶やかな女(ひと)


婚約者は微笑んだ。

「私と別れてくださいませんか」

ああ、いいよ。なんて言えるものでもなく。
だからと言って俺は、嫌だ行かないでくれとも言わないでただそこで固まっていた。
さまざまな思いが駆け巡る中で、また彼女は言った。
「他に好きな人ができましたんで」
それは、俺の台詞ではないだろうか。

「何か問題でもございましょうか?」
「え、いや、だって…。そんな簡単な問題でもないだろうに」
第一、婚約者だ。
誰が何と言おうと生涯を誓いあった人には違いない。
それは、どちらかがそれを否定しようとも一度決まったことは簡単には覆せないのだ。

――昔は互いを愛していた。
そして決めたことなんだ。だから破棄してはいけないと思っていたのに。

「別れてくださいましと、申しているんです」
それがこんなにもあっさりと壊れてしまいそうになっている。
訳も分からずに、何も言えないで固まっている自分が情けなかった。
「私に好きな人ができたんです。ですから、別れてくださいませ」
それは、俺が言いたくても言えなかった言葉で。
それを何故、あなたが言っているのだろうか。

ああ、なんて都合がいい。できる事なら結婚したくないと俺が思っているのを知っているかのような。
それで彼女はこう言っているのだろうか。微笑みからはどうとも言えない。
でも、だからと言っても何という事になるのだろう。
彼女の本意でないなら取り消させるべきだとでもいうのだろうか、自分は。
それをしたら、彼女と結婚することになるのだ。

どうすればいい?

この状況をどうにかしたいのに。
どうすればいい? 分からない。

好きな人が居ますって。
俺も好きな人が居るんで、そうですね、別れてください。
なんて。
言える訳が無い。

真っ赤に塗られた唇の端が上がる。
見惚れるような笑みを浮かべて、彼女は言った。
「では、別れないのですね」
何も言っていないのに話が進んでいく。
でも、なんていうのが正解なのだろうか? この場合。

「ごきげんよう」
真っ赤な唇を楽しそうにゆがませて、彼女は。
でもくるりとこちらに背を向けた時に彼女は動きを止めた。
「…何でしょうか。あなたは誰ですか?」
訝しむような声。
彼女の肩越しに見えた人は、、、
「お嬢ちゃん、あんたの婚約者をこっちに渡してもらおうか」
言葉が出てこない。
何であんたがここに居る。どうしてあなたがここに来た。
「嫌ですわ。婚約者ですもの」
「そんなことねーだろう? 俺は、あいつの恋人だ」
息が止まった。口を開いても言葉が出てこない。
言ってはいけない、世間的にも。ましてや婚約者に対して。
不義いや、不貞を働いていたというべきだろうか。
それは、知られるべきじゃなかった。

背中を向けているから彼女がどんな表情をしているかは分からなかった。
でも、驚いていることだろう。
…いや知っていたという可能性も否定できないから。
結局確認できない状態では何ともできないが。

振り返った。
驚いていないように見える。
でも、彼女はこんな人だ。
「で、どちらを取るんでしょうか? あなたは?」
凛とした声で、変わらずに。
「ああ、選べよ…」
「え…あ、」
迷わせはしない、見透かしてやるとばかりに彼女と彼の目が俺を射抜く。
「俺は、だって、好きなのは。好きなのは…」
「いいですわよ、好きな人が居ますから」
あなたはあなたの思うままに動いてどうぞ。
そう、こんな風に不意に幼い表情になるというところに惹かれたんだっけか。
遠い昔のように感じても、それは確かに俺の記憶で、俺の過去で。

「俺は、婚約を解消してほしいです」
「私が振られたみたいじゃないの」
拗ねたように彼女は言った。
「じゃあ、婚約者のお嬢ちゃん、もらってくぜ」

顧みたその表情に。
ごめん、と小さく言ってしまいそうになった。

「私も、好きな人がおりますんで」
だって、そんな表情。
それは、そんな表情じゃない。

ああ、そうか。
どうしてこの人は来たんだろうじゃないんだ。
何でこの人は来ることができたのだろうと思うべきだった。
ここで俺と彼女が話すことは二人しか知らなくて。
むしろ、俺は呼び出されただけで彼女しか知らなかったと思っても違いはない。
それに彼女は、俺に好きな人が居たことを知っていたのだろう。

「では、ごきげんよう」
また会う事があるかもしれませんね。
なんて言って去ろうとする背中に、つい声をかける。
「ちょっと、まって!」
「今更なにか?」
棘のある言葉。いつもみたいにのらりくらりとかわすんじゃなくて、幼い表情の時のような。
それぐらいでちょうどいいかな。
「幸せになってください」
なんて、俺が言っても。
「いやいや」
ふふふと彼女は笑った。いつも通りの顔に戻ってしまったのが残念でならない。
「あなたが幸せになるんでしょう?」

いい女だな。心底思った。
「いーい女だな」
こっちが口に出せないようなことを、たやすく彼は口に出してしまう。

そして彼女は振り返ることなく去って行った。

目次へ戻る

11/09
どうでもいい話なんですけど(というかここに書いてどうでもよくなかった話なんてないんですけど)、
今回の題名は『艶やかな女(あでやかなひと)』なわけですが、この漢字だと「つややかなひと」とも読めますよね。
綺麗な人を“艶っぽい人”と言うことがあるので間違いではないでしょうが、なんだか肌がすべすべそうですよね。
inserted by FC2 system