8.レースのカーテン


いつまでも捨てられなかった鍵。
靴入れの箱の中に入れていたので、埃が積もることもなく綺麗なままに残っている。

処分しておいてくれ。
そんな風に一筆添えられて、その鍵とそっくり同じものがポストの裏に張り付いていた。
更にご丁寧なことに住所まで記されていて。
「持っているよ、まだ」
苦笑いを噛み殺して紙の文字を再び見た。
行くのは久しぶりだ。
彼と住んだ、その場所に。

――◆――◆――

「よし、じゃああけるよ」
「うん」

柔らかい部屋が差し込む部屋は、今まで見てきたのと同じ部屋とは思えないほど温かく見えた。
ひとりがいなくなるだけで、こんなにまで見え方が違うのだ。
むせ返るような煙草の香りも、今は微かしか残っていない。
ヘビースモーカーだったあの人が、大分長いことこの部屋を放置していたことが分かった。

戻ってくるつもりも、無かったのかもしれない。

「うわ!」
「どうかした?」
「ほこりで足跡が付いた…」
ユウの足の裏は、灰色に覆われていた。

指差された先を見ると、ほこりが剥げてフローリングの綺麗な色が足跡分だけ露出していた。
一年以上いなかったのだろうか。
鍵も、もしかしたら気が付かなかっただけで、もう随分と前からポストの中に有ったのかもしれない。
いつから、いないのだろう。

部屋を見渡すと、あのころと変わったところは無かった。
ソファも、グラスも、ポットも、絨毯も、カップも、灰皿も、ベッドも、何もかもあの時のまま。
二人で選んだものたちばかり。
僕が出て行ってから、彼は二度とこの部屋に足を踏み入れることは無かったのではないか。
こうやって、今の僕みたいに思い出に浸ることもなかったと思う。B
彼にとってここは執着する様なところではなくて、
反対に僕にとってここはいつまでたっても帰りたい場所だった。

でも、知ってしまった。
ココは帰れない場所だったんだ。 本当に帰りたかったその人の元へは、もう戻れない。

「レースの、カーテン」
一緒に選んだもの。
というよりも最初はカーテンもなかったこの部屋にいると外からの目線が気になってしまった僕が、
何よりも先に買ってくれとせがんだものだったから。

――◆――◆――

「カーテンが、欲しいなぁ」
「おう、いいぞ。なんでも選べ」
俺は金持ちだからな。
そう胡散臭く彼は笑った。

確かにいつも財布に入っているのは万札で、何をしてどこから手に入れてきているのかは知らなかったが、
部屋を見る限りにおいても、というかじゃあ一緒に住もうとポンとマンションの一室を買ってしまうあたり、
生活するに十分と言われる以上の財力ではあるのだろう。

「じゃあー」
一緒にそろえようと言って彼が持ってきた家具カタログの中にはカーテンも載っていて、
その中で目を引いたのは
「これがいい」
「レースは高いんだぞ」
綺麗な模様に目を引かれた。
それは隣に書いてあった同じレースのカーテンよりも美しく、値段も倍ぐらい高かった。
「でも、なんでも選べって言ったじゃないか」

「全く。心して使えよ」
カーテンなんて、毎日引くものだ。
心しても何もないだろうに。

そして言うのだ、安心したように。
「やっと何かを欲しいって言ったな」
「そうかな。僕は結構自分のこと我が侭だと思ってるけど」
「なんかなー、そう言うんじゃないんだよなー」
まあともかく、言いながら彼は僕を抱きしめた。
「お前の居場所はここだ」

それから部屋には僕の所有印のようにカーテンがはためいていた。


捨てられたんだ。
この部屋も、カーテンも。
彼にとっては要らない物で、追いかけるものでもなくて、だから紙切れ一枚で手放せる。

「大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。ユウ」
目元が微かに紅かったとしても、ユウは見逃してくれる。
大丈夫と言ったら、踏み込まないでくれる。
でも、ユウの反応は予想とは違った。
ちょっと諦めたように笑って“そう”って言うのではなくて、
「目をつぶって」
「なんで?」

ユウは淋しげに笑いながら言った。
「だって俺の声は兄に似ているから。――今ぐらい、泣けよ」
ユウに抱きかかえられて。
煙草の香りはしないけれども、上から降ってくる声は彼そのもので。
でもそんな風に僕が彼とユウを重ねるのをユウは嫌う。

ユウが一番嫌う事をさせてしまっていることに、また、涙が出た。

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10/02
多分そのレースのカーテンからは、お日様と煙草の匂いがすると思われ。
布地ですから! 長く残ります!
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