留仙留

思えぬうちに近づきて


「留三郎」
 仙蔵がこのように硬い声を出すときには、大抵何かを依頼される時だ。
「この間の借り、返してもらうぞ」
「おう」
 この間の借り、とは言われた時にはすぐに応じることと自分の中で決めていた。
 ただし、その時の仙蔵が何かを楽しみにしている表情をしたことに、一抹の不安を覚えて前言を撤回したくなったのは胸の内に秘めておこう。


 さて、嫌な予感というのは大抵当たるものだ。それは、いつでも不運な同室といるうちに自然と身に着いた防衛機構かもしれない。忍びとして生きる道を選ぶ上ではそこそこ役に立つのかもしれないが、この学園においてそれは大抵逃げ出すことができない形で直面することが多い。
 一度話を逸らそう。
 先日の実習の際に女装で補習を命じられた俺は、仙蔵自らの手ほどきによって化粧を学びなおし、おかげさまで落第点を付けられることを免れた。そのことから、仙蔵に一つ借りができた状態で今日まで来た。
 一度、簡単なおつかいに同行したことがあったが、それは貸し借りのうちに含まないとこちら側から宣言した。仙蔵にとって重要な変姿の術についてその一部を拝借したのに、その程度で済ませるのは己が矜持が許さなかった。
 あの一件以来、仙蔵とは以前よりも話す機会が増えたように思う。個人的な関りが増えたといったほうが妥当かもしれない。貸し借りの介在しない、曖昧とも言えるやりとりを何度かすることもあった。端的に言うと、仙蔵と仲良くなれた気がする。そしてそれを俺は嬉しく思っている。まあ、仲良くなったということ自体がこちらからの勘違いでなければ、だが。
 閑話休題。
 自分で自分を追い込んだ結果、今は大変に不本意な結果になってしまっている。
 おつかい、の時に「この程度で借りを返せたと思ってはいないから次回また」と告げた時の仙蔵の表情に嫌な予感がしたものだった。しかし、時すでに遅し、自分から言質を取られに行ってしまったのだから仕方ない。
 そう、仕方ないのだ。仕方ない、仕方ない……。
 ではまた半刻後に、と以前の約束と同じようにして取り付けられた正門前での集合に、前回とは違った心もちで俺はいた。どうしてこうなった、と問わずにはいられない。
「ほう、似合っているじゃあないか」
 満足げにそう言う仙蔵は、頭の先からつま先までしっかりと目線を滑らせていく。
「見事な変姿の術じゃないか。女に見えるぞ」
 いつかの物の怪のような化粧を思い出してか、仙蔵は楽しそうに笑った。不本意だ。
 女装をしているのは自分の意思ではない。仙蔵に言われたから、致し方なくしているのだ。今回の任務に必要だからと言われ、なぜそれをする必要があるのかどうして女装をするのが仙蔵では駄目なのかとなるべく落ち着いて、しかし断固として拒否するつもりで聞いたが、「できることならすると言った己が言葉、よもや忘れたとは言わせないぞ」と凄まれた上に「私が手ほどきをしたんだ。女装はできない、とは言わないだろうな?」と言われ、首筋に刃を当てられたように大人しく言葉に従うしかなかった。
「留三郎、いや、今は留子さんと呼ぶべきかな」
 確実にからかってきている。任務のためだから仕方ないと請け負ったのに、あんまりだ。
 すいと仙蔵が顔を近づけてくる。化粧の細部を確認するためかぐるりと嘗め回すように顔を見られると、落ち着かない。一通り見たのか、少し顔を離した仙蔵が口元を緩めた。
「やはり、その紅の色はよく似合っているな」
 褒められたのとは少し違う。それなのに、ほんのりと心が浮き立つような心地がする。
「使ってもらえているようで、あげた甲斐があったな」
 口調は柔らかい。からかっていることを差し引いても、これだけ楽しそうにしているのであれば俺の女装に概ね満足していると考えていいだろうか。
「それにしても、どうして女装でなきゃ駄目なんだ?」
 有無を言わさずとりあえず女装してから来いと言われ、任務の内容についてはまだ何も聞いていない。この間のおつかいよりももっと大変なことを頼んでいいと言った「借しの回収」をわざわざ口に出してきたということは、任務の内容も多少は過激さを帯びていることが考えられた。
「ああ、それなんだが。連れ込み宿で調査しなければならないんだ」
 だから、お前が女でなければいけないんだよ。男二人で行くわけにいかないじゃないか。
 そう仙蔵が言った。
 曰く、任務の内容はこの通りであった。とある城の要人が連れ込み宿を用いて金銭を対価として取引をしている。連れている護衛の者も少なく、要人が城に背いて行っていることなのか、はたまた連れを少なくすることで他の城を欺いて密談を進めているのか、それは潜入してみなければ分からない。取引の内容について把握し報告すること、それが今回の任務であると。
「連れ込み宿にはすでに金子をいくらか渡しており、要人の姿が見えた時にはその隣の部屋に通してもらうことになっている。そこでなんとか取引の内容を掴むというわけだ」
「だからと言って、俺よりもお前のほうが女に見えるじゃないか」
「これは私が依頼された任務だからな。いざという時に何かと動けるようにしておきたい。それにしては、女の着物では動きづらいだろう。できれば、その得物も使わないで済むようにしたいところなんだが」
 そう言って仙蔵は、こちらの胸元に目を滑らせる。
「ばれていたか」
「少し、不自然だからな。まあ、普通に見ればまずわからんだろう」
「俺もできればこの姿でこれを振るいたくはないが、まあお守りみたいなものだ」
 胸元には鉄双節棍が入っている。前回の時には、苦無などは仕込んでいたがこれは置いてきていた。最後は多少荒事になったが、そもそもは簡単なものだと思っていたのだから得意武器に出番はないだろうと思っていたのだ。油断と言ってしまえばその通りで、今度は持っていこうと思っていた。
「お守りか。鉄双節棍をお守りとして懐に忍ばせている女とは、なかなかに面白いな」
 ツボに入ってしまったらしく、仙蔵はそのまましばらく笑っていた。ようやく笑いが収まると、呼吸を整えながら目元を拭う仕草を見せる。そんなに面白かっただろうか。
「まあ、下手を打たなければいいだけの話だ。留三郎、いいや留子さん、いこう」
「……はい」
 そのあと門のところで会った小松田さんには、別嬪さんだねぇと暢気に感動されて少しだけ気合の入りすぎた肩が緩んだ。
「分かっているだろうが、恋人のふりをしてくれ」
「……具体的にはどうすりゃいいんだ?」
 生憎恋仲になった女はこれまでにいない。色の実習はあったが、それとこれとは別の話だ。
「黙って少しうつむいて半歩後ろをついてくれば、淑やかな女に見えるよ」
「分かった」
 神妙に頷くと、静かに仙蔵が笑う。何か面白いことを言っただろうか。


 喋った声色などでぼろが出てもいけないので、会話はほとんどせずに目的地までついた。
 仙蔵が何かを店主に見せると、何も言わずとも奥に通される。女中に続いていくと、建物の中であるというのにいくつも曲がり角を曲がっていった。こういったところは少し複雑な構造をしている。だからこそ、密談場所にも選ばれた。
「ごゆるりとどうぞ」
 と頭を下げて女中が扉を引いた。
 部屋の中にはいかにもといった形で布団が敷かれ、枕が二つ並べてある。桶と手ぬぐいと、昼間から薄暗い室内では灯台に火が入っていた。
 隣の部屋からはかすかな喘ぎ声が聞こえている。どうやらかなり繁盛しているらしい。
 周りからの音を拾っていると、それに紛れ込ませるようにすぐに矢羽根が飛ばされる。
『奥の部屋らしい』
『俺は何をすればいい?』
『これを、外の気配がおかしかったらひいてくれ』
 そう言った仙蔵に細い紐の先を渡される。なんだと思っていると、仙蔵は自分の指にその長い糸のもう一端を括り付けた。
『天井裏からなら会話が聞こえるはずだ。異常があったらすぐに戻る。二人で布団に寝ているように、布団に入っていてくれ』
『わかった』
 天井を見上げれば、そこはすでに一枚板が外されていて、音もなくそこに入っていった。見張りの者は一応ついているとのことだったので、その気配を探ろうとしたが店が繁盛しているお陰で人の気配が多すぎる。何人とも分からないが、とにかく扉の外に神経を集中させる。
 させながらも、言われたように布団に潜り込んだ。女の胸のあたりに縋り付いているように、布団の内側で腕やら足やらを突っ張って膨らませる。出来を自分で確認することができないからどうも言えないが、一瞬でも、誤魔化すことができればあとはどうにでもなる。用心も含めて、手になじむ得物を取り出して布団の下で握りしめる。
 隙間風の音とともに喘ぎ声が耳に入る。しかし、何事か会話をするような声は聞こえない。仙蔵の任務はうまくいっていることだろうか。こうして、一人で待つだけということは早々ない。そう思うのは忍者として半人前であることを自分で認めるようなものだが、どうにもざわざわと心配が生まれる。
 かたん、と部屋の入り口が動いたような気がした。今のは、不自然ではないだろうか。隙間風にしては方向がおかしい。人の気配は相変わらず掴みきれないが、だからこそ異常だ。人がいると分かったならば、女中か他の客だと思えたのだが。
 ゆっくりと仙蔵につけられた紐を手繰り寄せる。手に僅かな抵抗がかかった。
 再び音もなく仙蔵が戻ってくる。布団をはぎ取られ上に覆いかぶさると、情事の最中のように顔を近づけてきた。
「紐を、思い切り引け」
 耳をくすぐる吐息に首をすくめたのはほとんど反射だった。ぞわりとした感覚がつま先まで駆け抜けたが、仙蔵からの言葉を聞き逃したわけではない。先ほどと違い思い切り引くと、木片が落ちるような小さな音がした。
 その瞬間、すぱんと障子が開いた。町人のような恰好をしているが、いきなり気配がなかったはずの扉の外から内に入ってくれば、ただの町人でないことが知れてしまう。いっそのこと、気配を気取らせておけば、部屋を誤って入ってしまったのだと言い訳もできただろうに。
 しかし、入ってきたものの顔を見ることはなかった。がたん、と近くから音がして何事かと思い、顔を動かさずにそちらに視線を移すと枕が転がっていた。なぜ、と思った時には何かが触れた。仙蔵の顔が近い。そして唇には、どんなものとも違う、あるかなしかさえ分からないような柔らかな触感がある。目は閉じられて、長いまつ毛が微かに震えている。それがひどく近くに見えた。
「……失礼した」
 侵入者がそう言って出ていくまでに、どれほどの時間がかかったのかそのおおよそのほども分からない。出ていくと仙蔵は離れて、ゆっくりと目を開けた。押し倒されたような恰好のまま、視線が絡む。
「もう、いいのか」
 囁くような声で、そう聞いた。
「ああ。十分だ」
 そう言った仙蔵に手首を掴まれて、引き起こされる。
『……見張りは二人だ』
『まだ外にいるな』
『どうする。このままだとずっとそこにいるだろう』
 きっと部屋の中の音に聞き耳を立てて、喘ぎ声が聞こえないとなったら再び侵入してくるだろう。
『上から抜けよう。できそうか?』
 天井裏を反対側に行って、別の部屋から降りる。それが最良の選択かと自分も思っていたので、何を聞かれたのか一瞬分からなかった。
『ああ、この程度だったら大丈夫だ』
 忍び装束でもなければ動きやすい袴でもない、この着物姿に向かっての言葉だったのだろうが、さすがにこの程度の動きの制限で物音を立てたりはしない。
 大丈夫とそう請け負うと、仙蔵は大きく一つ頷いた。
 結果から言うと、部屋からの脱出は滞りなく進み、見張りの者に見つかることなく宿を後にした。
 きっと任務はうまく行ったのだろう。俺は調査の結果を知る必要はないから聞かないが、見張りについていたものたちがあれでは雇い主であるさる城の要人とやらのたかが知れている。そんなものが動かせるのはごくごく矮小なものであることは、経験と照らし合わせなくても明らかだった。
 仙蔵の半歩後をついていく。静かに、俯いて。
「そうしていれば淑やかに見えているぞ、きっと」
 喉の奥をくつくつと鳴らして仙蔵が笑う。唐突に思い出した。門を出た後に、恋人の女に見えるためにはどうすればいいと聞いた俺に対する答えだ。静かに少しだけ俯いて、半歩後ろを歩くこと。
 ただ、そうしていることの理由が違う。淑やかに見せるためなどではない。
 宿が見えなくなるぐらいまで遠ざかって緊張が少し緩んだ瞬間から、心臓が早鐘のようにけたたましく鳴っていた。まだ任務は終わってはいない。帰るまでが任務だ。だというのに、自分の体の内に起きることに集中力をかき乱される。耳に脈が打ち付けられているようにうるさく、そして全力疾走をした時のように早い。
 横に並べば、顔が見られてしまう。こちらを振り返ってくれるなよと祈るような気持ちで、さっきからいつも通り調ったこの男の顔を盗み見ている。その度にすうと吸い寄せられるように唇を見てしまって、慌てて目を伏せた。
 柔らかな感触が思い出せそうで、思い出せない。勿体ないことをしたと考え出している自分には、とっくに気がついていた。任務の遂行に必要であった行為に意味などない。それなのに、どうしたらもう一度そこに触れられるのかと考え始めている自分が浅ましいと思った。
 薄く見えるのに、いつもゆとりを思わせる角度を描くそこは、驚くほど柔らかかった。
 口吸いをしたことはこれまでにもある。色の課題も難なくこなした。それのどの時にも、こんな風にはならなかった。
 早送りされる血流のせいで眩暈すら起こしそうだ。
「留三郎」
 そう、俺の名を呼ぶ仙蔵の唇は柔らかく動く。その口の端に、自分と同じ朱い色がわずかにのっていることに気がついて、また馬鹿みたいに心臓が跳ねた。これ以上どう暴れるというのだろう。思わず着物の上から押さえると、無機質な鉄の固い感触に触れて少し落ち着く。お守りと言ったのも、案外間違いではなかったようだ。
「どうかしたか」
 平静を装って、そう聞き返す。手が震えを吸い取るように、声はきちんと出た。
 仙蔵はくるりと振り返ってこちらを見る。
「今日は助かった」
 そうか、それはよかったな。
 そういいたかったのに、言葉にできなかったのは仙蔵の手が頬に伸びてきたからだ。体温が低めだと分かる、その細い指が頬に触れる。自分の顔が熱いのが分かってしまう。それはきっと仙蔵にも伝わっている。
「綺麗だよ。留子さん」
 口説いているのか、それとも現状に対して余計な言葉をそぎ落としたらその言葉になったのか俺には分からない。ただ、留子さんに向けられた言葉だというのに、ただの賛辞として受け取れない。ありがとうと笑えばいい。仙蔵にここまで言わしめるならば、お嬢さんと呼ばせる実習でもなんでもきっと余裕だろう。しかし、それを手放しで喜べなかった。


 学園に着き、変姿の術を解くよりも先に向かった先があった。
「伊作はいるか?」
 保健室の扉を開けると、伊作は中で薬研で種のようなものを曳いていた。
「わわ、どうしたんだい留三郎。……それとも今は留子さんと呼ぶべきかな?」
「あいつと同じこと言うんだな」
 ぶすっとして座り込むと、伊作は少し困ったような顔をした。
「今日は任務だと言っていたじゃないか。もう終わったの?」
「ああ、早く終わったんだ」
「その女装は?」
「任務でだ。趣味じゃあないからな」
「そりゃあそうだ。ついこの間まであんなにうまくいってなかったもんね」
 その、ついこの間のことを思い出したのか、伊作は肩を揺らす。それと同じ口を開いて、こうも言った。
「ただ、今の留子さんは綺麗だよ」
 さらりと賞賛が出てくるところは、この忍びらしからぬ同室の素直でいいところだと思う。ただ、少々素直すぎるところは褒めるところばかりではないこともあると釘をさす。
「まだ、お前が腹抱えて笑ったこと忘れてないからな」
「あの時はごめんって」
 伊作が首をすくめた。
 しばらく、薬研が生薬を細かくすりつぶしていく音だけが聞こえる。常では、治療でもなんでもなく用がない時に保健室に居座ろうとするものを容赦なく追い出す保険委員長殿は、何故か今日ばかりは追い出そうとしてこない。
「この間言われたこと、なんだが」
「この間?」
「仙蔵が、自分から化粧の手ほどきをした理由が分からなかったやつだ」
「理由が分かったの?」
 そう問われて、いいやと首を横に振った。
「相変わらず、何も分からないんだよな」
「そうかい」
「ああ」
 ただ一つ、別のことが伊作と話して分かったような気がする。
「邪魔したな。すまない」
「気にするなよ。同室じゃないか」
 合言葉のように、伊作がそう言った。


──◆──◆──
 

「仙蔵」
 そう呼び止められたのは、湯浴みも済ませてもう寝ようかとしているときだった。少し話があるといった留三郎はもうとっくに女装を解いていて、私と同じように浴衣一枚に少しだけ水分が残っている髪を下ろしている。
 同室の潮江文次郎は、今日のような月が半分よりも欠けている日は、忍者におあつらえ向きの夜だ鍛錬だと言ってろ組と出かけていた。だから、部屋に来ればいいと誘えば違うところがいいと言う。
 二人でどこかを目指して少し歩く。今日は二人でそこそこの距離を移動したものだったが、常に半歩下がっている留三郎の気配がそこにあったばかりで、こうして肩を並べてはいなかった。横に並んだ留三郎は何も言わない。時々こちらをちらちらと伺うような目線を寄こしてきて、偶然を装ってわざと目を合わせれば慌てて逸らされた。
 何だというのだろう。これはどういう意識なのか。
 このあたりでいいだろうと言ったのは、見えるところに倉庫しかない裏手側のほうだった。倉庫の上に太り始めの上弦の月が輝いている。
「で、どういったことだ?」
 今日のことなら、話せることは限られている。そう言えば、留三郎は首を振った。聞きたいことじゃあなくて、言っておきたいことがあるのだと。
「なんだ」
「俺、お前のこと、多分好きだ」
 食満留三郎は、そう言って笑って見せた。

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