留仙留

思ひ至らざればさりとてあらん


 伊作が部屋で調合を始めるのは、何らかの事情によって保健室が使えないときに限る。といっても、四六始終不運に見舞われている伊作はその「何らかの事情」が常に起こりうるために部屋で調合することがしばしばあるのも事実だ。部屋中が薬臭くなるし、夜中にそれを行われたときには寝られたものではないのだが。
 今日はそんな不運が起きず、伊作は休日を使って保健室で薬の調合を行っているはずだった。部屋にいるのは自分一人で、今日中に返却しなければならない兵法書を広げる。返却期限を守らなければ、長次にあの笑顔で迫られてしまうから急がなければならない。そうして、天気のいい昼下がりであるが、一人部屋に籠って書籍に目を走らせているのであった。
 ひたひたとわずかな足音が廊下の向こうから近づいてくるのが聞こえてきた。この時間に六年の部屋の前を歩いていることから同じ六年生であろう。僅かな足音が聞こえるのは、本人に気配を隠す意図が無いからであろう。ぴたりと部屋の前で足音が止まって、扉が引かれた。
 伊作かと思って振り返ったそこには、仙蔵が居た。
「留三郎」
 ぴしりと仙蔵に名前を呼ばれる。
「なんだ、珍しいな」
 緊張感のある声に、思わず居ずまいを正した。
「ほう、珍しいか」
 仙蔵がわざわざ自分を呼ぶことは早々ないことのように思えて、そのままを口にしたのだが何か面白いと思ったらしい。仙蔵は少しだけ口の端を上げて笑った。
「で、どうしたんだ?」
 入口のところで立ち止まったままの仙蔵に中に入るように手だけで促すと、仙蔵はそれを断るようにゆるりと首を振った。逆光の中、光を受けて反射する艶やかな黒髪がさらさらと揺れて前に落ちてくる。
「今日、これから暇か?」
「ん? ああ。特に委員会もないが」
「それはよかった。半刻後、校門のところに来てくれ。外出届は私が出しておく」
 何の用事かも聞き返せないうちに仙蔵は部屋を出ていった。
「……付いていくのは決定なんだな」
 呆れたようにため息をついてみるが、実はそんなに嫌ではない。無自覚に他人を問題に巻き込んでいく同室に六年間振り回され続けたせいで耐性でもできてしまったのか。そう思うとなかなかに嫌なものだが。
 結局何の用事であるのかは聞く時を逃してしまったせいで分からなかった。必要なことのみを伝えて、不要なことを徹底的に排除するなんてことは通常運転の彼のことだ。言わなかったということは、つまり知らなくてもいいことだろう。そう結論付ける。
 仙蔵が何をするか伝えぬままに自分を引きずり込んだのは、思ってみればあの時もそうであった。先日、女装の補習に引っかかって落第となりかけたところを、仙蔵のほうから化粧の指南を申し出てくれたおかげで免れたあの時だ。
 そういえば、文次郎があの後補習に落ちたという話は聞いていなかった。同室のよしみで、同じように仙蔵に変装術を教えてもらったのだろうか。あの時仙蔵と自分との間に流れる空気が時間の流れから切り離されたように独特で、不思議と印象に残っている。では、文次郎とではどうであったのだろうか。まあ、そんなことは考えても仕方がないと、その思考は頭から追い出した。
 結局、あの時仙蔵がなぜ女装の練習に付き合ってくれたのかは、考えてみても分からなかった。伊作に、仙蔵に聞いてはいけないと言われてしまったために本人に聞くことできず、真相は藪の中だ。
 あの時に言った「自分にできることならなんでもする」という約束は果たしていなかった。今日これからする用事というのは、そのことなのだろうか。あの時の借りはなかなかに大きい。こちらの落第を免れるために、これまで己で磨いてきた忍びとしての技術を分け与えてもらったのだ。それなりのことには応じられるようにしなければと気合を入れる。
 言い渡されたのは半刻後に正門前だ。どんな用事かも分からない以上は、何時に学園に帰ってこられるかも分からない。
 出かけの準備は、まず図書館へ本を返すところからだ。


──◆──◆──


 門のところで待っていると、約束の時間ぴったりに仙蔵はきた。
「……仙蔵?」
「今は、仙子とお呼びくださいませ」
 山田先生と同じような台詞を言って、仙蔵はそのさらさらの髪をかき上げた。一歩前に進むたびにしゃなりしゃなりと音が聞こえそうな美女がそこにはいた。
「二人とも、外出ですか〜?」
 少し遠くの方から、朗らかな声が聞こえてくる。事務員の小松田さんがこちらに向かって走ってきていた。
「これを、お願いします」
 仙蔵が手に持った外出届を二枚、小松田さんに手渡す。
「食満留三郎くんと……ほへ? 立花仙蔵くん? とっても、綺麗だね〜。くのいちかと思っちゃった」
 小松田さんはごく自然にそう言った。ここらへんが、へっぽこと呼ばれながらも誰からも慕われる、小松田さんが小松田さんらしい人たらしたる所以なのだろう。
「ありがとうございます」
 仙蔵は賛辞を当たり前のように受けて、軽く頭を下げた。
「二人分、確かに受け取りました。気をつけていってらっしゃい」
 大事そうに外出届を抱き込んだ小松田さんは、人好きのする笑顔を向けてくる。
「はい」
「行ってまいります」
 対してこちらの美女は、隙のない完璧な笑顔といったところか。
 じゃあね〜、と手を振る小松田さんに見送られ、門の外に出た。
 
 仙蔵が足を向けたのは、森を二つ抜けた先にある城下町だった。
 町中を目的があるようなしっかりとした足取りで進んでいくと、ある一軒の店の前で足を止める。
「ここの団子屋が美味しいと、……しんべヱから聞いていたんだ。ここにしよう」
「おう」
 しんべヱと言うときに仙蔵は何故だか躊躇ったが、そのまま店の表の席に腰を下ろした。
 ほどなくして店員が注文を取りにくる。
「団子を二皿くれ」
「あいよ」
 注文を通すと、仙蔵は隣で帳面を取り出していた。筆をとって、帳面に何事かを書き付け始める。
『なるほどな』
 そういうことか、と思い矢羽根を飛ばすとすぐに返事が来た。
『女のほうが怪しまれないからな』
 道行く人々を見ながら、時々帳面に筆を走らせる。
『なるべく普通にしていてくれ』
『了解』
 ほどなくして出てきたお茶をのんびりと啜る。
 今回の仙蔵の任務は市井の調査ということだろう。店の前に席のある団子屋からは、道行く人を見ていても怪しまれない。市井の人々を観察するには適している場所ではあるが、甘味処で男が一人でのんびりしすぎていては怪しまれる。女が一人できて、団子屋に長居するのも不自然だ。夫婦や恋人であれば、食べる速度が遅く二人でのんびりくつろいでいてもおかしいところはない。そんな風に見せかけるために連れてこられた、そう考えるのが妥当だろう。
 ならば、できるだけゆっくりと過ごした方が都合がいいはずだ。
 しんべヱが勧めていたという言葉の通り、団子の味はとても美味しい。以前食べさせてもらった、長次の作った団子とどちらが美味しいかと言われると悩むほどだ。
「仙子さん、食べないのか?」
 そのまましばらく過ぎてしまったせいで、団子の表面が乾いてきている。あまりに長いこと口をつけないのもおかしかろうとそう勧めると、仙蔵はこちらを見た。
「食べさせてくださらないの?」
 仙蔵は笠をかしげて、器用に上目づかいをして目線を合わせてくる。なまじ見た目が美女なだけあって、素直にどきりと心臓が跳ねた。
『冗談だよ』
 今度は矢羽根でそう言われる。ふっと目の前で美女が口元を綻ばせた。からかわれたのだと分かって、むくりと反抗心が起きた。そんな風に言うのならば、やってみるだけだ。仙蔵の方に置かれた皿から、団子をひと串取り上げる。
「ほら、口を開けろ」
 そう言うと、仙蔵は大人しく口を開けた。これは予想と違って、拍子抜けしてしまう。
 驚きに動きを止めた俺の手を仙蔵が引いた。そしてそのまま、俺が手に持ったところから団子を齧る。
「美味しい。……さすが、しんべヱの勧め」
 そうして頬張りきれなかった残りを、同じようにしてもう一口とっていく。
「どうしたの、留三郎さん」
 固まったままの俺を見て、ほほほと口元を押さえ仙蔵が笑った。美人な見た目をしているために、からかわれたと分かっているのに怒りに直接的に結びつかない。これが中身まで本物の美人であれば、役得なだけなのだが。しかしながら中身は、麗しい見た目とは正反対と言ってもいい、冷静さの中に苛烈さを秘めた焙烙火矢の名手だ。
「なんでもない」
 そう言って、仙蔵に構うのをやめることしかできなかった。仙蔵は作業に戻る。
 とうに自分の分の団子は平らげてしまっていた。恋人役であるところの仙蔵は帳面と見つめあっていて、こちらに構ってくれない。こうなってしまえばあとは暇だ。察しろとばかりに仙蔵からは任務の内容を教えてもらっていないために、手伝うこともない。
 この間、女装の手ほどきを受けてから自分でも練習を重ね、女装はまともになった。伊作から笑われることもなくなり、自分で言うのもあれだがなかなかの美人に仕上がっているとは思う。だが、こうして仙蔵を目の前にすると話は別だ。元より透き通るように白い肌は、白粉を薄っすらと重ねたことで仄かに色気が匂う。この間仙蔵に貰った紅よりも赤みが強い紅は、唇を艶やかに彩っている。濃い紅の色が印象をきゅっと引き締めて、美しさに拍車をかけていた。これはどこからどう見ても女にしか見えない。
「そんなに見つめられると、顔に穴が開いてしまいます」
 きゅうと眉を下げた顔は、本当に困っているわけではない作り顔と分かっているのに、心が音を立てて締め付けられた。
「え? あ、ああ、すまん」
 居たたまれずに、反対の方向を見るように目を逸らす。
「顔を逸らさないでも。私に惚れ直したのでしょう?」
「仙……」
 耳に含み入れるような囁きに、仙蔵と言いかけたところで唇を人差し指で押さえられる。違うでしょうと、目が語っていた。
「……子、さん」
 圧倒的な雰囲気に飲まれる。それこそが、ただの美女ではなく仙蔵であることの証明のようなものだった。
「面白いかた」
 妖艶に口の端を上げて、仙子は笑った。
「さて、そろそろお暇しましょうか」
 気が付いたときには、仙蔵の手元にあったはずの団子は綺麗に無くなっていた。
「ここは私が」
 そう言って、銭の入った巾着を忍ばせた袂に手を伸ばそうとするのを手で制す。
「お嬢さんに出させたとあっちゃあ、男が廃るだろう」
 その言葉に仙蔵が動きを止める。長居してしまった詫びにと、お代より少し多めの銭を置いて席を立った。


 徐々に薄暗くなっていく帰り路の森の中を、のんびりと歩を進める。町からどんどんと離れていく道に、二人以外の気配はない。
「今日はどうしたんだ」
「何がだ?」
「こんなに簡単な任務を仙蔵が受けるなんて」
 実際に調べていたことについては知らされていないが、ただの市井での数の調査ならば一年生でも十分にこなせる任務だった。
「そういう、気分だっただけだ」
 無駄なことを省く割には、自らの楽しみのためには労を惜しまない仙蔵の言葉に、それ以上質問を重ねることはない。何となく楽しそうな様子の仙蔵を見る限りでは、本当に楽しみたかったからとただそれだけの理由であるということも十分あり得た。何なら、久しぶりに女装をして出かけてみたかっただけとも言い出しかねない。
「留三郎、今日は付き合ってくれてありがとう」
「おう、気にするな」
 それにしても、何故他の六年ではなく俺だったのだろうか。と思えば、その疑問を先回りしたように仙蔵が答えを教えてくれる。
「文次郎と長次は、この年頃の女と連れ立って団子を楽しむ恋仲に仕立てるにしてには、面が怖すぎる。小平太は落ち着きがないから、じっとこちらの調査が終わるまで待っていろというのは無理な相談だろう。伊作は件の不運で、こんなに簡単な任務にも問題を起こしかねない。というわけで、お前が空いていて助かった」
 なるほど、それならば俺が選ばれた理由にも合点がいった。そこで、ふと疑問がわいてくる。
「俺が空いていなかったらどうしたんだ?」
「その時は、そうだな。一人で来たか、作戦を別に立てたさ」
 本当にあいつらでは駄目だという判断だったのだろう。策士だの参謀だのと言われる彼の仙蔵の判断だ、誤りがあるとも思えなかった。
 先へと進んでいくと、ますます日は落ちて視界が悪くなってくる。忍術学園へ向かうには最後の分かれ道を目前にして、仙蔵がしゃがんだ。
「あ、痛いっ」
「大丈夫かっ?」
 鼻緒のところを押さえる仙蔵の足元を覗き込むようにして、地面に膝をついた。
『分かるか?』
 小さく矢羽根が飛んでくる。
『ああ。二、……いや三というところか』
『囲まれてはいないということか』
 周りに潜んでいる者たちの気配は、忍んでいるという割には分かりやすすぎる。この場合は二つに一つ。実力があるものがわざと気配を気取らせて圧力をかける場合か、あるいは実力のないものが忍びきれていない場合か。しかしこの様子からして、後者の可能性のほうが高かった。
「動けそうか?」
「いいえ、痛くて……」
 はたから見ればお嬢さんとその付き人か。ただし違うのは会話の中途に矢羽根が挟まることだ。
『私をおぶって走れるか?』
『お前ひとりなら、なんとか。どうにかできるのか?』
『焙烙火矢を持ってきた』
「では、こちらに」
「ありがとうございます」
 よいしょっと仙蔵を背負った。
 その途端、先ほどの気配が動く。
「おい、兄ちゃん。その姉ちゃんと、金目の物を置いていきな」
『ちっ、なんだ山賊か』
 仙蔵が調べていることに気が付いた城の者かと思いきや、ただの物盗りだ。しかもこの様子では正面から一対三で戦ったところで十分に勝てそうだ。しかし、女装した仙蔵がいる今にあまり派手に乱闘することは得策ではない。あくまで最後の手段である。懐にある忍びとしての重みを今一度確認してから、足に力を込めいつでも出られるように構える。
『なんだとは随分だな』
 笠で山賊から顔が見えないからと、仙蔵が遠慮なしにくつくつと笑うのが背中越しに伝わってきた。
「兄ちゃん、聞いてんのか? 姉ちゃん背負ったまんまじゃあ、逃げ切れやしねぇぞ?」
「さて、それはどうかな?」
 用意ドン、と心の中で唱えて、予備動作無しで飛び出る。いきなりのことに反応しきれない山賊の隣をすり抜けるようにして駆け抜ける。
「待て、この野郎!」
 二拍ほど遅れて山賊共も追いかけてくる。さすがに人間一人分背負っていると、山賊から足だけで逃げ切るのは無理だ。足音と怒号は離れるどころか、少しずつではあるが近づてくるのが分かった。できればもう少し離れたい。あまりにも近いとこちらまで巻き込まれてしまう。
「もう少し離れられるか?」
「おう」
 準備ができたらしい仙蔵にそう言われ、最後の踏ん張りと足を速める。速度を上げたこちらに山賊たちはまた反応が遅れて、段々足音が遠のく。
「それ」
 仙蔵の小さな声が聞こえて、もうひと踏ん張りと足に力を込めた。
 首や手首などの露出している部分が細くて白いから華奢な印象を受けるが、実際には焙烙火矢を投げ飛ばす筋力やらなんやらで重量はそこそこある仙蔵の体を背負うのは、走るにしてはなかなかに大変だった。
 後ろで一つ大きな爆発音が響き、走っていても分かる程度に地面が揺れた。すぐに仙蔵を背から降ろして、道端の木に登る。
 そのまましばらく待ったが、山賊たちが来る様子はない。
「少し、様子を見に行ってくる」
「頼んだ」
 仙蔵をその場に待機させ、枝から枝に移る。来た道を戻る様に道に沿った木の上を移動すると、山賊が二人伸びているのが見えた。もう一人は頭を押さえつ覚束ない足取りながら、仙蔵の待つ方へ進んで行こうとする。
 こんなのにやられるほど落ちぶれちゃいないが、この程度のものに後ろをついてこられて学園まで案内しても末代までの恥になる。
「なに、しぶといやつめ」
 静かに背後に回ると気が付いた様子もない。そのまま手刀を落とすと、あっさりと昏倒した。これで、次に目が覚めた時には謎の美女と青年は行方不明という寸法だ。
 仙蔵の元に戻ると、既に木の上から降りてきていた。
「すまんな、面倒ごとに巻き込んでしまって」
「いいや、気にすんな。戦い、というには歯ごたえが無かったが、部屋で一人時間を潰しているよりもよっぽど楽しい休日だったよ」
 懐に入れておいた苦無や手裏剣にもに仕事は回ってこなかったことだけは残念だったが。
 そう伝えると、仙蔵はからからと楽しそうに笑った。
「それは残念だったな。でも、楽しんでもらえたようで何よりだよ」
「また何かあったら声をかけてくれ。この間の借りはきっちり返さにゃならんしな。この程度じゃあ利息ほどにしかならないだろう」
 最後に少々走りはしたが、実際にしたことと言えばうまい団子屋で茶をしてきただけだ。
「ほう? ではありがたく、また今度のんびりと返してもらうことにしよう」
 そう言った仙蔵の目がきゅうと細められる。
 いや、一年生のお使い程度で落第の危機を助けてもらったことを精算できるとは思っていなかったのは言ったとおりであるが、これは早まったかもしれない。
「楽しみだなぁ、留三郎」
「あ、ああ」
 より一層楽しそうに笑う仙蔵に、少しだけ顔をひきつらせた。 

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