鉢尾

二の次に心

 じゃあこれ配っておいてくれ、よろしく。と、移動教室の帰り道、担任とすれ違いざまにプリントの束を教科書の上に重ねられた。
「プリント配りまーす!」
 移動教室から戻ったばかりで教室の中は混沌としており、声を張り上げる。
「勘、余ったやつは?」
「俺が預かる!」
 がやがやと相変わらずうるさいが、プリントは人の手から手にきちんと回ったようだ。

「はい、あまり」
「サンキュ」
「学級委員長は大変だな」
 余部を持ってきてくれた八左ヱ門から労りとも何ともつかないことを言われた。それに曖昧に笑って受け取ると、プリントは残り四枚。先生が余部をどれだけ用意していたかわからないので何人がもらっていないのかはかわからないが、いつも通りなら余部は二枚。だからこれはきっと、自分と三郎と、余りが二枚だろうか。適当に用意されることも多いので、一応と声をかける。
「貰ってない奴いたら後で俺のところまで取りに来るように言ってくれー!」
 はーいとちらほら返事を返してくれるいいクラスの連中だ。
「んー、見た感じ今いないの三郎だけじゃないか?」
 教卓のすぐそこ、一番前の席の兵助がちらりと教室を見回してそう言った。
「へえ、なんでいないんだろうな」
 相方の雷蔵は教室に戻ってきている。
「さあ」
 首をすくめる兵助に軽く礼を言って、プリントを机の中にしまった。
 三郎が戻ってこないかと入口のほうをしばらく見ていたが、結局最後の授業が始まるギリギリになって駆け込んできた三郎にプリントは渡せなかった。

 ホームルームが終わると机をはける。三郎に渡してないのにプリント入れっぱなしだったって気が付いたが、すでに机は寄せられて取り出せそうにない。三郎に後で渡す旨を伝えようと姿を探したら、教室で掃除を始めていた。これならわざわざ少し待っているようにいう必要はないだろう。それでもなるべく早く帰ってこられるようにと、掃除場所の廊下に急いだ。
 帰ってきたときには、教室の机がやっと並べられているところで少し手伝う。そこに、雷蔵がばたばたと走りこんできた。
「さぶろー!」
「どうした?」
 最後の埃を集めていた三郎が、箒を持ったまま三郎に近づいた。
「これ、渡しそこねてて」
 雷蔵が鞄からプリントを引っ張り出す。直接入れていたのか、端っこが折れて少しよれていた。
「さっき六時間目の前に配られたんだけど、三郎いなかったから僕がもらっておいたんだ」
「そうか、ありがとうな。雷蔵」
 そう言った三郎は、笑っているのだろうか。俺には背を向けていてその表情は見えないのだけれど。でもきっと、三郎は雷蔵に笑いかけている。
 机の中に入れていたプリント四枚。自分の分をとった残りの三枚は捨てなくちゃ、ゴミなのだから。今ならまだ教室掃除のゴミ出しに間に合うかもしれない。要らないものを持っていてはどんどん増えてしまうのだから、こまめに捨てなくてはいけない。机から教科書ごと引っ張り出したプリントを、リュックに直接突っ込んだ。
 早く帰ろう。今日は雲行きも怪しい。早く帰るのにこしたことは無いだろう。

 さっさと荷物をまとめて学校の外に出て数百メートル。まったく、ついていない日なのだきっと。電子辞書を机の中に忘れてきた、よりにもよって明日提出の課題がある今日に。諦めてしまいたいぐらいだったが、幸か不幸かここからならまあ仕方ないと戻れる。今にもこぼれそうな空模様の下、くるりと踵を返して学校に向かった。
 道中で雨がパラパラと降り始める。降りはじめたら厄介だとか思っていたのに、失敗した。この分だとどれだけ急いでも帰り道は土砂降りだろう。
 さっきまでは半分以上埋まっていた下駄箱は、ほとんどが空になっていた。俺はみんなとは反対に、上の段に入れた上履きに履き替える。
 湿気で滑りやすくなっている廊下は、歩くたびにゴムがすりあうような不愉快な音を立てる。どの教室もほとんど誰もいなくなっていた。こんな悪天候ではいつもだらだらと駄弁っている奴らもきっともう家についているころだろう。ただでさえ気分はどん底なのに、どんどん気持ちが落ちていく。
 すでに勢いを増してきた雨をもたらした雲は分厚く、まだ五時になってもいないのにあたりは薄暗い。一番向こうの教室には電気がついていたが、他はついていない。うちの教室にはもう誰もいないのだろう。そう思って、油断していた。

「勘か」
 教室の中に人がいたことにびっくりして、それが鉢屋三郎であることに二度びっくりした。
「なんで、いるの?」
「お前こそどうしたんだ? 帰ったんじゃなかったのか」
「あー、ちょっと忘れ物。 っていうかほんと何でいるの? 電気もつけないで」
「私は、ちょっと図書室まで用事があって」
「ふうん」
 お前が用事があったのは、図書室じゃあなくて雷蔵だろ。とは言わなかった。
「勘右衛門、帰るのか?」
「うん、これ取りに来ただけだしね」
 机の中から引っ張り出した電子辞書を見せると、三郎はそうかと言った。
「一緒に帰らないか?」
「え?」
 さっきまで雷蔵に会ってたんじゃないの。雷蔵を、今も待っているんじゃあないの。その言葉は住んでのところで飲み込んだのに。
「雷蔵は、図書委員会が終わったら、彼女の部活が終わるのを待つそうだ」
 そう言った三郎の目からは何も読めなかった。雷蔵がいないから何も見えないのか、あるいはとっくにこんなことに順応してしまったのか。
「雨ひどいけど」
「まあ帰れないことはないだろう」
 急いでいるわけではない。ただ、ここにいる意味がないだけだ。
 雨は激しさを増すばかりで、先ほどから雷も鳴り始めた。窓の外がぴかりと一瞬光った気がしてそちらをみる。それからたっぷり十秒かかって、ごろごろとうなり声が響いた。
「なんだ、勘、雷が怖いのか」
 とんだ早合点。俺が何となく帰りたがらないのを雷のせいだと思ったみたいだ。勘違いを正す気になれなくてそのまま認める。
「ちょっとね」
「意外だな。こんなところに弱みがあったとは」
 ああ、そうだ。これが俺の弱みだ。俺は、雷は怖くないよ。三郎、お前が言ったからだ。
「帰るだろ?」
 それは疑問ではなくただの確認だ。
「うん、早く帰ろう。これ以上ひどくなる前に」
 バケツをひっくり返したような雨模様に、これ以上激しいなら滝だなと思う。風はあまりないが、びたびたと大きな雨粒が窓ガラスを叩いていた。外から水が染みて壊れないようにリュックの奥に電子辞書をしまう。邪魔なプリントは外に出して、ごみ箱に投げ入れた。


「はあ、雨やばいね。本当に帰れるの、これ?」
「本当にすごい雨だな」
 下駄箱についた時、これ以上ないと思っていたのに明らかに教室にいた時よりも雨足が強くなっていた。
「なあ、勘。お前傘は持っているか?」
「さすがに今日持ってこないことはないよ」
 ほら、そこに。竹の柄の、お気に入りの藤色の傘。
「今日は折り畳みじゃあないんだな」
「最初から雨が降るってわかってたからね」
 置き傘はあるが、ひどい雨になるとわかっているときには折り畳み傘ではいささか心もとない。

「折り畳みも持っているか? もし良ければ貸してほしいんだが」
「あるけど。え、三郎傘忘れたの?」
「いや、私ではない。雷蔵の傘がないんだ」
 三郎は自身のバッグから紺のチェックの折り畳み傘を出すと、そのまま下駄箱に入れた。多分、そこは雷蔵の靴がある場所だ。
「まだ帰っていないのは靴があるからわかるんだが、傘が見当たらないんだ。雷蔵には折り畳み傘ぐらい置いておけと言ったんだが、どうにも晴れている日に傘を持ってくるのをよく忘れるみたいでな。先週も雨が降っただろう? 多分長い傘がないから雷蔵は傘を忘れているんだと思ってな」
「それで、三郎の傘を雷蔵に貸すから代わりに俺のを貸してほしいって?」
「ああ」

「ほんっとうに三郎って雷蔵バカだよなー!」
 そして俺は本当に三郎に甘い。
「貸すのはいいけどロッカーなんだよね。取り行ってくるからちょっと待ってて」
「いい、私が借りるんだから私もいっしょに行くさ」
 付いてこなくていいのに。そう言おうと口を開いたとき、周りが真っ白になるほど強く外が光って、間もなく地響きのような大きな音がした。
「ひっ」
 開いた口からは驚きのあまりひきつったような声が出た。
「……びっくりしたぁ」
 雷が特別怖いというわけでは決してない。でもこれほどまでに大きな雷に遭ったことはこれまでなかったし、大きな音に対して普通に反応してしまっただけだ。それなのに三郎はそれみたことかと楽しそうににやにや笑っていた。
「手でも繋いでやろうか」
「いらない!」
 三郎に背を向ける。冗談のつもりだろうが全く心臓に悪い。怒っているのだと完治がしてくれれば上出来だ。

 先に歩き出してしまった俺を追って、三郎が横に並ぶ。先ほどのような大きな雷はもう落ちなかったが、小さな雷はいくつか間をおかずに落ちている。
 点滅する踊り場の蛍光灯を見て停電したら嫌だなあと感想を抱いたのと、三郎のつぶやきは同時だった。
「……懐かしいな」
 何の話かと思ったが、さっきまで三郎との間でしていたのは雷が怖くて手を繋ぐ話だった。
「雷蔵が雷を怖がっていたの?」
 今でこそ十把一絡げに物を考えるが雷を気にしていた時があったのかと目を丸くすると、違うといって三郎は緩く頭を振った。
「昔、私が雷を怖がったんだ。その度に雷蔵が手を繋いでくれた」
 ずっと傍にいて大丈夫と言ってくれたのは雷蔵だったと、三郎は柔らかなまなざしでその思い出を語る。
 ねえ、どんな気持ちでお前はそれを言っているの。俺が教室に戻る前、三郎は雷蔵に会いに行ったんじゃあないのか。そこでどんな気持ちで、彼女を待って一緒に帰るって雷蔵の言葉を聞いたの。
「いつからやらなくなったんだっけな」
 いつから、怖くなくなったんだっけ。
 俺も昔は雷が怖かった。天を引き裂く稲妻が刺さった場所は、そのまま地面が割れてしまって穴に飲み込まれてしまうのではないかと思っていた。それが、いつから怖くなくなったのだろう。稲妻は電気だと分かるようになった頃からだろうか。

「はい、どうぞ」
 雷蔵のように首をひねっていた三郎に、傘を渡す。
「ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。お返し期待してるからな」
「じゃあ手を繋いでやるよ」
 茶化す俺の言葉に応じるように三郎が言った。何だよそれ、思ってもないくせに。いらないけど。
「いりませんー! ってか何様、て感じ」

 湿気で滑りやすくなっている廊下をぱたぱたと走る。きゅっきゅっなんて耳障りのよくない音を立てて、自分と歩幅の違う足音が追いかけてくる。
 まだ雷は鳴り続けている。雷蔵の下駄箱を見れば、まだそこにはスニーカーがきちんと並んで入っていて、上履きはなかった。
 ぼんやりとそこを見ていると、三郎に呼ばれる。
「勘右衛門、お前の傘はこれで合ってるか?」
 竹の柄の、藤色の傘。大正解だ。元から知っていたわけではなくて、さっき見て覚えたのだろう。三郎の背後がぴかりと光り、一瞬あたりが白く照らされて明るく見える。少しおとなしくなったと思ったのに、結構大きい雷が落ちたみたいだ。三郎が後ろを振り向くと、光から遅れてからドンと衝撃音それに続いてごろごろと空が唸った。
 三郎が、どんな表情をしているのかは分からない。

「手を繋いでやろうか、雷蔵の代わりに」
 冗談みたいに言ったつもりだった。雷よりも驚いたように三郎がこちらを振り返る。
 雷蔵の代わりに、なんて言葉がさすのはこんなことじゃあないのに。雷蔵になりたいわけではないと言いながら、なんて愚かな。
 何を馬鹿なことを言っているんだと、馬鹿にしてくれ。そんなのじゃあ意味がないんだと直接言葉にして突きつけてくれればいいのに。
「いいやいらない。もう雷は怖くないから」
 本当に、いらないの? そう聞きたい衝動に駆られて、でも口を閉じた。要ると言いたげな表情をしていたらと考えて、うつむいてしまう。
 その言葉を三郎が認めたら、本当に欲しいものは俺の手ではなくて。だから、いま否定されてほっとしているなんて。

「俺は雷が怖いよ」
「……手を繋いで欲しいってことか?」
 うつむいていても、三郎の影が動くからきっときょとんと首をかしげているのだろうと分かる。
 三郎に近づいて、藤の傘の柄を挟んでその手に自分の手を重ねた。一瞬繋いでいるように触れてから、傘だけを掴んで一気に扉に向かった。

「なわけないじゃん、ばーか!」
 叫ぶためにくるりと振り返った一瞬で雷は光らなかったから、まだ暗い所にいる三郎がどんな顔をしていたのかは分からなかった。
 傘が開くのも待たずに外に躍り出る。水たまりだらけの校庭をこの勢いで駆けたら、きっと足元はどろどろになって母さんに叱られる。

「待てよ!」
 三郎が叫んでいる声が、雨で途切れそうになりながらもはっきりと耳に届いた。
 貸してやったんだから、ちゃんと傘使えよばーか。そう言ったはずの自分の声は、やっと開いた傘に叩きつける雨音で全部かき消されてしまった。三郎の声も聞こえない。
 まだ、追いかけてきているのかもしれない。確かめたりはしないけど。

 待ってなんてやるものか。

戻る

配布元
AZ store AZ store

inserted by FC2 system