鉢尾

一万回目の失恋

「彼女ができてさ」
 高校生で賑わっている店内のがやがやとした喧騒が、雷蔵のその言葉で一瞬静かになったような気がした。

 ガタンと大きな音を立てて八左ヱ門が立ちあがる。
「ええーーっ!?」
 左隣からあまりに大きな声で叫ばれたので、そちらのほうに驚いてカップを押しつぶしてしまう。ストローからあふれてきたシェイクで汚れた手を拭いていると、すぱんといい音を立てて兵助の手が八左ヱ門の肩を打った。
「叫ぶな! それから座れ!」
 ぐいと手を引かれて引きずられるように八左ヱ門が兵助の横に腰を下ろす。兵助もなかなかに大きな声で叫んだが、さすがに怒られそうなのでからかうのはやめた。

「で、いつからなんだ、雷蔵?」
 あまり懲りていないのか、八左ヱ門は身を乗り出して雷蔵に近寄る。
 八左ヱ門怖いよと身を引きながら雷蔵は笑っている。その頬はうっすらと染まっていた。
「二か月前に、」
「おほーっ! そんなに前から!?」
「ううん、違うんだ。二か月前にデートに誘われて」
「彼女のほうから誘われたのか! どこに行ってきたんだ?」
「……八左ヱ門。ちょっとは静かにしてくれ。雷蔵が話しづらいだろう」
 雷蔵の言うことに一つ一つ反応する八左ヱ門のせいで話がなかなか進まないのを見かねて助け舟を出したのは相変わらず兵助だった。ぱっちりとしたまつ毛に彩られた瞳が八左ヱ門を見据えると、ぴょんと跳ねていたしっぽが一瞬でしゅんとなったように八左ヱ門が下がった。
 その様子をたははと苦笑いしながら雷蔵が見ている。

「で、二か月前にデートに行って?」
 そう先を促せば、雷蔵が話を続ける。
「あ、うん。それで、二か月前にデートに行ったんだ。
 あまり話すこともなかった子だったから、びっくりしたけどうれしくて。
 そこからずっと連絡するようになったり、学校で会ったらちょっと笑ってくれるのが、いいなって思って。
 それで、あまり待たせるのも悪いから二週間前に僕のほうから告白して、
 オーケーもらって付き合うことになったんだ」
「いいな〜」
 ため息交じりに八左ヱ門がうつむく。
「俺も告白して付き合いたい」
「なんだ八左ヱ門。お前も好きな奴がいたのか?」
 三郎が口を開く。
 意外そうに片眉を上げる三郎に、いーやと八左ヱ門が手を振った。
「まずはそこからか〜」

「しかも、雷蔵の彼女可愛いしな」
 そこに兵助が追い打ちをかけた。
「え、なんだよ兵助。雷蔵に彼女がいたの知ってたの?」
「むしろ知らなかったの八左ヱ門だけじゃない?」
「言ってくれよ、らいぞ〜」
 はあああと本日何度目かわからない深いため息をついて八左ヱ門がうなだれた。
 一応言っておかなくちゃと思って、とにこにこ笑っている雷蔵に八左ヱ門が食いつく。
「今日は一緒に帰らなくてよかったのか?」
 八左ヱ門はもう元気になったのか一人楽しそうににやにやしている。
「相手、吹奏楽部だから。悪いから待ってなくていいよって言われてるし」
 律儀に答える雷蔵の顔は緩んでいた。
「それはな〜待ってやったほうがいいんじゃあないか」
「そうなの?」
 素直に首をかしげる雷蔵に、自信満々に八左ヱ門はうなずいた。
「そういうもんだろう。多分」
「八左ヱ門、適当なことを言うなよな」
 彼女もいないのに。そう付け加えると、
「そんなこと言うなよ。お前もいないくせに」
 八左ヱ門が拗ねたように口をとがらせた。

「って勘右衛門、お前俺のポテトなんで全部食べてるんだよ!」
「ばれたか」
 あーあ、見つかっちゃった。
 残っているシェイクもなくなって、ずぞぞとみっともない音を立てる。
「勘右衛門〜」
「だって冷めそうだったし」
 けろりと言い切れば、八左ヱ門はまた溜息をついた。生き物大好きなこの友人は、その性質のためか本当に面倒見がよくて大変甘い。だからさ、いいじゃん今は許してよ。
「勘右衛門は色気より食い気だな」
 そう俺を笑った三郎と、目が合った。

 あーあ、ずるいなあ。いいなあ。
 そんな風に思ってしまう自分がいる。
 いつもは饒舌に余計なことを話す三郎が、今日はほとんど口を開いていない。口を開いたと思えば、いつもは雷蔵雷蔵とそのことばかりなのに、雷蔵が彼女のことを話し始めてから、雷蔵に話しかけない。
 いつもはへらへら笑う狐も、いまばかりは少しだけ表情が引きつっている。
 でもきっと、気が付いていているのは俺だけだ。ずっと焦がれて狐を見続けているせいだ。
 ずるいなあ。
 だって俺に向ける顔とまるで違う。
 面を被ったように、何も読ませないいつもの表情と違う。

 失恋は痛い。
 分かるよ、と心の中で嘯く。
 俺はもう途中から回数を数えることをやめてしまったから分からないけど。きっと今が一万と一回目とか、そんなところだと思うよ三郎。

「いいなあぁ」
 話題が一巡りして、また彼女がほしいと八左ヱ門がうなっている。
「好みのタイプとかは? あるのか?」
 机に突っ伏しているせいで毛玉のようになっているお隣に兵助が優しく声をかけた。
「好み……」
「そう、可愛いなって思う子とかさ」
「うーん……。理想は、色が白くて、黒髪で、目がぱっちりしていて、何か守ってあげたいな〜みたいな感じの子?」
 八左ヱ門が好みと紹介してきたものに、みんな一様にうわぁとうめいた。
「それは、彼女なんてできないだろうな」
「あんまりにも、なあ」
「実在するのか?」
「なんか、彼女いない歴=年齢の男が考えた理想の彼女って感じ」
「言えっていうから言ったのに……」

 ぶちぶちと文句を言う八左ヱ門の言葉は続く。
「大体さあ、好みだ何だって言っても、俺のこと本当に好きって思ってくれて、
 そんな風に好きになってくれたら好きになっちゃうもんだと思うんだけど。
 誰でもいいってわけじゃあないけど、
 でも、俺のことちゃんと見て本当に好きになってくれた子だったら、
 誰でも大切にできると思うんだけどなぁ……」
 八左ヱ門は見かけによらず中身はロマンチストだ。
「それも大分贅沢じゃあないか?」
 存外天然ボケな兵助がそんな八左ヱ門に見事なボディーブローを決める。

「わかってるよ!」
「あ、いや、そうじゃあなくて、相手からもきっかけがないと好きになってもらえないだろ?」
「じゃあ兵助、紹介してくれるの?」
 がばりと飛び起きた八左ヱ門が目を輝かせていることは、背中を向けられていてもわかる。
 兵助が困ったように眉を下げた。
「いや、紹介できるほど知らないし……」
「そっかあそうだよなぁ。じゃなければ、お前にも彼女がいるよなぁ」
「でも兵助は八左ヱ門と違ってモテるから、作れないんじゃなくて作らないだけだけどな」
 からかう三郎の声に、だからそういうこと言うなよ〜とサンドバック状態に涙目になりながら八左ヱ門が抗議する。
 そこに雷蔵がまあまあと言いながら入ってきた。
 三郎の目が雷蔵をみて、ゆらりと揺れた。指が、意味もなくナゲットのマスタードソースの箱を手繰り寄せてははじく。
 これが一万と二回目。

「三郎、食べないならもらってやろうか」
 手元に放置してあるナゲットに手を伸ばすと、虚ろに向かっていた目がこちらを捉えた。
 ボロボロじゃあないか。狐の面も剥がれ落ちて。
 俺はごまかし方もすっかり顔になじんで離れなくなってしまったというのに。
 そしたらこれで、一万と三回目。
「やらん。お前さっきさんざん八左ヱ門のポテト食べてただろうに」
「え〜、けち〜」
 これ見よがしに三郎は俺の目の前で一つ頬張った。
「雷蔵、食べるか?」
 一つ残りが入った箱を、雷蔵のほうに差し出す。せっせと甲斐甲斐しいやつ。
 一万と四回目。
「いいの? ありがとう」
 そうして、ぱっくりとたったの一口で雷蔵の口の中に消えて行ってしまった。雷蔵の手に紙ナプキンを握らせる三郎。
 一万と五回目。
 ありがとうと再び笑う雷蔵に、常になく丸みを帯びた表情をした三郎の、目の奥がすっと冷えていくそこから目が離せない。
 一万と六回目。

 そんなことをぼんやり思っていたら、三郎の目線がこちらにスライドしてきてまた目が合ってしまった。
 言うなって口止めのつもり? そんなことしなくても、乞われたって教えてやらないよ。自分で気が付くまでは。
 分かっているよと口元を歪めれば、そっと開いた三郎の口が音もなく四文字を吐き出す。
『た ぬ き め』
 読唇術なんて使えないから、からかうようなその言葉を確かめる術はない。だから都合よく解釈する。
 三郎は狐で、俺は狸。まるで対のようにして言ってみても、鉢屋三郎の対は不和雷蔵ただ一人だ。ただし、雷蔵には決して言えない秘密の共有者として。
 これは一万と七回目の失恋だ。

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